ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第26夜 知覧特攻平和会館①(疑問)・・・称賛される英雄たち

小さい頃、戦闘機や軍艦に憧れた。
軍艦を作りたくて、大学では船作りを学んだ。
でも、戦争は嫌いだ。
私の中に二人の自分がいる。

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あんまり緑が美しい。

 今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ。

  真青な空 ぽかんと浮かぶ白い雲 

   6月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。

 

 

これは22歳で知覧から特攻へ飛び立った兵士が残した文章だ。
知覧特攻平和会館の多数の展示物を見ながら、私は幾度も涙を拭った。
愛するものを残して死んでいく苦悩や、残されたもの達の悲しみがそこには溢れていた。
私は自分の幼い子どもや老いた父母の姿を想い重ねながら、「決して戦争をしてはいけない」と誓った。


知覧は3回訪れた。
最初は1995年で、その時の感動は忘れられない。
二度目は、それから7年ほど後だ。
平和教育の研修として訪れ、その時も展示内容に感動した。
だが、前回と違い妙な違和感を覚えた。
戦闘機の大型の模型がいくつも増えている。
いずれも実機と見まがうほどに大きく、ピカピカで格好良い。
飛行機や戦艦が大好きな私は、一心に見入った。
だが先程まで涙を流していた私と、兵器に憧れる私の両者が自分の中で葛藤し始めた。
そして、「この格好いい戦闘機は、何のために展示されているんだろう?」と考え始めた。


別の展示室でも、壁にかかる大きな絵が目を惹いた。
そこには、鉢巻き姿の日本兵が勇ましく戦う様子が描いてあった。
敵基地に着陸した機内から機関銃を撃つもの、地上に降りて拳銃を構えるもの、抜き身の軍刀を構えたもの、そして上空には複数の日本の爆撃機が描いてある。
戦争末期、沖縄の米軍を攻撃するために、熊本の健軍飛行場から破壊工作部隊が出撃したらしい。
私は熊本に住みながら、そんな史実を知らなかった。
しかし制空権もない当時、こんなにも多数の飛行機が敵基地へたどり着いたのだろうか。
そもそもこの作者は何を伝えたいのだろうか。
絵からは、死にゆく者の悲哀ではなく、突撃する兵士の勇ましさしか感じなかった。


とどめは売店での買い物だ。
平和教育の資料にしようと、書籍コーナーで本を何冊か購入した。
その中に、日本に占領された台湾に関する本があった。
著者は台湾人なので、てっきり占領当時の苦労を書いたものとばかり思って買ったが、その内容は日本の占領を賛美するものだった。
「日本が占領したから台湾は発展した」との内容で、占領の負の面は書かれていない。
こんな本が置かれていることに驚いた。


特攻隊員が死に向き合う姿に涙した私だったが、平和会館を出る時には、展示品の陰に見え隠れする得体の知れないものに不安を感じていた。
ただ、その後に同じ知覧町内の富屋食堂(ホタル館)を訪問して少し救われた。
多くの特攻隊員が通ったこの食堂の女主人は、隊員たちから母のように慕われ、出撃前には隊員達が別れの挨拶に立ち寄ったと聞く。
いわば「民営平和会館」とも言うべきこの施設の方が、特攻兵の等身大の姿を伝えているように思えた。
知覧を訪れて感じたのは、平和をどう作っていくかの難しさだった。


二回目の訪問から数年後、南九州市(旧知覧町)主催の「平和スピーチコンテスト」が毎年開催されている事を知った。
一般の部の最高賞金は何と30万円。
私は俄然意欲が沸き、一気に原稿を書き上げた。
だが出来上がった文章を読み直すと、平和会館の展示に対しての批判的な箇所がいくつも有った。
私は悩んだ。
書いたことは私の正直な感想だが、主催者を批判するような文章では入賞は難しいだろう。
結局私は賞金の魅力に負け、会館への批判の文章を半分に削り、残りの半分も曖昧な表現に止めた。
かくして原稿は何とも中途半端なものとなってしまった。

 
応募してひと月ほど経った頃、思いもかけず一次予選通過の通知が来た。
多数の応募の中から上位8作品に選ばれ、二次審査を受けることとなった。
二次審査は録音テープによる朗読の審査で、それに通過した4名は知覧町でのスピーチコンテスト本番へと進む。
二次審査を通過すれば、最低でも10万円、うまくいけば30万円の賞金が手に入る。
教師として普段から喋り慣れている私は、スピーチに絶対の自信を持っていた。
私は大喜びでスピーチの録音に取りかかると同時に、妻には内緒で、大型の液晶テレビ電気屋に注文した。


出来上がったテープを発送して間もなく、待ちに待った二次審査の結果が送られてきた。
だが、結果は予選落ち・・・
5位~8位の入選者として、小さな盾が同封してあった。
無論、賞金は一円も無い。
私は落選が信じられなかった。
「なぜ、落ちたのだろう。展示の批判をしたことがやはりダメだったのだろうか?」
幾ら問いかけても答えは見つからない。

 

気落ちしながらも、寝そべって新品の液晶テレビを見る私に対して、妻の厳しい視線が注がれた。

 


先日、久々に特攻平和会館のホームページを見た。
若い来館者の感想の一部が掲示してあり、その文章を読んで気が重くなった。

「両親への孝行・・、国を信じて死んでいった男らしい姿・・、今の若者は自分中心の人生を送っている・・」等々と書かれている。
「二度と悲惨な戦争を起こしてはいけない」という結論の部分は私と同じなのだが、そこに並んだ言葉に、何か危ういものを感じた。


今、ウクライナの状況を巡って、反戦・平和という言葉が盛んに飛びかっている。
だが皮肉にも、戦端を切ったプーチン大統領ですら「ロシアとウクライナ人民の平和を守るための、正義の戦い」と言っている。
日本でも、「敵がミサイルを発射する前に敵基地を攻撃をしなければ、日本の被害は防げない」
「日本も核武装をすべきだ」といった発言があちこちで出るようになった。
このような状況を見て、知覧の英霊たちは何を思うだろう。


私は平和のために自分に何ができるかを改めて考え、一つの決心をした。

 

最近スピーチコンテストの賞金額は大きく減り、昨年の一般の部の応募者は70名程度に激減している。
だが私は、もう一度コンテストに応募してみようと思っている。
今度は賞金は要らない。                          (2022年3月記)

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