ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第28夜 ADHDの私(豊かさとは何か)・・・ブッシュマンの憂鬱

1980年制作の映画「ブッシュマン」 
一本の空きビンが巻き起こす珍騒動に笑った。                         

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アフリカの上空を飛ぶセスナ機から投げ捨てられた一本の空きビン。
それを拾った原住民は、その素晴らしい使い方を発見する。
水汲みの容器として、楽器として、工芸の道具として、万能の力を秘めた空きビンは大活躍し、それを巡って住民同士が争うまでになる。

 

そんなストーリーのコメディ映画「ブッシュマン」を見て笑ったのは、もう数十年も前のことだ。
だが今、私は笑っていられない状況にある。


私の周りには空きビンと同じものがあふれている。
居間にある自分の引き出しを開けると、食パンの空き袋が何枚も入っている。
その他、ボトルガムの空きケース、ジャムの空きビンが多数。
パンの袋は匂いを遮断するという性質を持っているので、コーヒー豆や魚など、匂いのやり取りを嫌うものを冷蔵庫へ保存するのに重宝する。
ボトルガムの空きケースは、小さい部品などの保管ケースとして便利だ。
しかし便利なものも、引き出しから溢れるほどに必要なわけではない。
それなのに、私の周囲は「あったら便利なもの」で溢れかえっている。

 

自分の部屋も、本や古い書類、何台ものパソコンや周辺機器と部品、各種小物や楽器等で溢れ、足の踏み場もない。
倉庫に入るとバイクや自動車から取り外した部品の数々、材木の端切れ、めったに使わない特殊工具で埋まっている。

 

ボロの中古ばかりだが、オートバイも増えてきた。
ツーリング用にロードバイクを、山道を駆け回るためにオフロードバイクを、そう思うと自転車もオートバイも増えてしまう。
だが、実際にはもう何年もバイクに乗っていない。
錆びて動かなくなった何台ものバイクや自転車を見て、家族は捨てろというが、「いつかレストアしよう」という夢が有り、なかなか捨てられない。

 

「モノ」はどんどん増えていき、私の部屋も倉庫も何がどこにあるのか、自分でもわからない状態となっている。

映画の中では一本の空きビンをめぐって争いとなり、当時の私はそれを見て笑ったが、多数の「空きビン」に埋もれて身動きの取れない私は、彼らから笑われるだろう。

 


ものを整理できないのは、小さい頃からだ。
特に学生時代、私の下宿は友人の間では汚い部屋として有名だった。
大学2年の時、下宿に泥棒が入ったことがある。
隣室の学生は部屋をきれいにして鍵もかけていたが、鍵を壊され大切なものを盗まれた。
私の部屋は部屋は散らかり放題で鍵もかけていなかったが、盗まれたものはなく部屋もこれ以上は荒らされなかった。
現場検証に来た警官は私の部屋を見て「もう少し片づけろ」と言ったきり、まともな現場検証もしなかった。

 


小さい頃は、単に片付けにルーズな子供だと家族も自分も思っていたが、教育現場で各種の発達障がいを知り、「まさに自分はADHDだ」と思うようになった。

やるべき事を後回しにして、好きな事に没頭する。

物事の優先順位がつけられない。
決断ができず何事も先伸ばしにする。
結果として物を捨てられない。

 

そろそろ終活の時となった今、これらの「モノ」をどうしようかと悩んでいる。
「モノ」達は私の夢であり、私の生きてきた歴史だ。
何を残し何を捨てるか、なかなか決められない。
だが自分が死んだら、それを決めるのは残された者たちだ。
彼らは何を基準としてその判断をするのだろう。
それは、私の人生を彼らがどう判断するかということにもつながる。


また私は、残された者として取捨の判断をする立場にもある。
数年前に父が亡くなった。
父が自室や倉庫にため込んだ大量のものを、ぼちぼちと整理している。
父が描いた下手な油絵や塑像、趣味で集めた発動機、旅行のたびに買い集めてきた数十点もの帽子のコレクションや大量の写真。
だが、まだ半分も捨てきれていない。

 


何が「大切なもの」なんだろう。
いよいよ悩みは尽きない。

 

(注)

映画「ブッシュマン」は、現在「コイサンマン」という名前にタイトルが変えられているようです。

ブッシュマンという言葉に、「文明が開けていない」住民を侮蔑する意味が隠れているからでしょうか。

しかし、コイサンマンという名前も果たしてふさわしいのか疑問です。

タイトルを変えただけで、「差別」という批判から逃れようとしただけのような気もします。

文中では、あえて当時のまま「ブッシュマン」を使用しました。

私の中に差別の意図は無いつもりですが、「何が差別か」悩みます。