ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第37夜 ジョーの思い出(大陸横断鉄道を作った曽祖父)・・・トロンコとジャケツの謎

昔から、我が家だけでしか通じない言葉がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我が家の言葉は、他の家と少し違う。
いろんな国の言葉が混じっている。
私の肥後弁、妻の備後弁、息子の嫁は肥前の言葉だ。
そして私が小さい頃からよく聞いた言葉に、由来がよくわからないものが有る。

 

明治生まれの祖母は、ジャンパーの事を「ジャケツ」と呼んだ。
私はジャケツは昔言葉か地域の方言かと思っていたが、私の祖母と父以外にこの言葉を使う人間に会った事がない。
そして我が家には「トロンコ」という、これまた他では聞かない言葉もあった。

 

トロンコは洗濯機くらいの大きさの、表面が皮でできた丈夫な箱だ。
我が家では金庫代わりに使われていた。
中には大切な書類や古い手紙などと共に、1900年前後のアメリカのものが入っていた。
小さい頃の私はこっそりと蓋を開けて、中に入っている昔の1セント硬貨を引っ張り出しては遊んでいた。

 

1800年代の末期、曽祖父は家業の桶屋に見切りをつけ、一旗揚げようとアメリカに出稼ぎに出た。
妻子を残して単身アメリカ西海岸に渡り、シアトルを中心に様々な肉体労働に10年ほど励んだらしい。
トロンコの中には当時のいろんな資料が収めてあった。
我が家に伝わるジャケツやトロンコの名前は、その実物と一緒に曽祖父がアメリカから持ち帰ったものかも知れない。

 

曽祖父のアメリカでの体験談を、父は酔った時によく話してくれた。
ツルハシとスコップを手に、横断鉄道の線路を作ったこと。
カナダとアメリカの国境をボートで行き来した時に見た、海の浅瀬一面に広がる昆布の平原の壮観な風景。
たこ部屋みたいな人足宿で、一本の丸太を枕にして何人も雑魚寝をした話。
(朝の起床の際は、現場監督が丸太の端をハンマーで叩いて起こしたらしい)
同僚と喧嘩し、命の危険を感じて別な場所で寝た翌朝、自分のベッドに戻るとナイフが突き立てられていた話。
冒険談は尽きなかった。
だが、父の話の最後はいつも同じだった。
「爺さんに、もっと才覚が有ったらなあ・・」という言葉で終わる。

 

曽祖父は10年の間にかなりの貯えを成し、祖国の家族に送金した。
家族の無駄遣いを心配して、直接には送らず親戚に送金しその管理を委託した。
だが当時困窮していた親戚は、そのうちのかなりの額を使ってしまったらしい。

帰国した地元の出稼ぎ仲間の他の二人は、それぞれに事業を起こし今も残る立派な会社となっている。
だが堅実な曽祖父は将来のために貯金した。
戦時中は大量の戦時国債を買い、戦後には紙くずとなった。
病弱の父を抱えて一家を支えてきた私の父にしてみれば、ひどく残念な事だったろう。

 

曾祖父の冒険談を聞いた小さい頃、私も世界で活躍しようと夢見た。
しかし活躍どころか、海外は観光旅行で香港に一度行っただけだ。
広島に数年いた他は、ずっと熊本に暮らしている。
平凡な人生に残念な気もするが、今は満足している。

 

曽祖父は現地で暮らす間、ジョーと呼ばれた。
ジョーは、本当はもっと長くアメリカに居たかったらしいが、心配した家族からの「父、危篤」の偽手紙に騙されて日本に戻った。
その後再びアメリカに渡ろうとしたが、家族に反対されて叶わなかった。
帰国後の人生は思うようにならず、失意の連続だったようだ。
そして最後は、自宅の縁側で孫と日向ぼっこをしている最中に倒れて亡くなった。
最愛の孫と過ごしながらの、幸せな幕切れだったように思う。

youtu.be