悲しみは 数え切れないけれど その向こうできっと あなたに会える
繰り返す過ちの そのたび 人は
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
私の中に 見つけられたから
「いつも何度でも」より(一部抜粋)
(作詞:覚 和歌子、作曲:木村 弓)
私の大好きなこの歌は、別れの歌だ。
だが、悲しくは有りながらも、ひどく透明で何か感情を通り越したものを感じる。
別れは悲しいだけのものでは無く、かけがえのない大切なものにつながっている様に思えてくる。
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(写真:Adobe Stock より)
珍しく片付けをしようと、押し入れの段ボール箱を開いた。
すると古い書類と共に、白いオルゴールが出てきた。
「ここに有ったんだ・・・」
感慨のあまり、しばし手が止まった。
ねじを巻いて蓋を開くと、私の好きな曲「いつも何度でも」が流れてきた・・
20年前の3月、私は想定外の転勤の辞令をもらい、寝る間も無いほどの慌ただしさの中にあった。
転勤の際には、結構早くに転勤になることだけは伝えられるのが通例だ。
だがその年の私は、辞令交付の朝になって転勤を知らされた。
多分、言うことを聞かない私が目障りになって、校長に飛ばされたのだろう。
当時の私は、校外の様々な機関と連携して仕事をしていた。
自分の高校だけで無く、他の高校や中学校の不登校生徒の指導などにも関わっており、退任式までの一週間は引き継ぎや挨拶回りに追われた。
そして退任式の前日となった。
「明日は、何を喋ろう?」
7年間勤務したので、様々な思いはあったが、どうも2・3分では話せそうに無い。
それに毎年の退任式を見ていて、いつも生徒たちを可哀想に思っていた。
退職者、転出者を合わせると、毎年20名近い職員がそれぞれにスピーチをする。
これが本当につまらない。
感傷に溢れた個人的な思い出の羅列や、生徒に向けた人生訓の説教など、大半のスピーチはそのどちらかだ。
これを生徒たちは体育館に座って、一時間以上にわたって聞かされる。
いくら親しかった先生との最後の別れの場とは言っても、耐えられる限度を超えている。
私は以前からぼんやりと考えていたことを実行に移すことにした。
退任式の朝、私はスーツの下に秘密兵器を仕込んで壇上に上がった。
7・8番目だったろうか、自分の番となりマイクの前に立つと、私は懐からミニサイズのキーボードを取りだした。
取り出す仕草が手品のように見えたのか、フロアに座る生徒たちがどよめいた。
「僕は、喋るのが苦手なので歌を歌います。」
生徒達は大きく笑って、拍手をしてくれた。
やはり退屈していたようだ。
咳払いをすると、キーボードを弾きながら歌い始めた。
選んだ曲は私の好きな「いつも何度でも」だ。
安物のキーボードは同時には3音しか出ないが、私も指3本でしか弾けない。
和音の種類は極力減らして、簡単な伴奏にした。
それでも途中で何度か止まりそうになったが、会場からの「頑張れ」の声に励まされた。
生徒たちは最後まで静かに聞いてくれた。
歌い終わり、楽譜から顔を上げてフロアを見渡した。
たくさんの見知った生徒たちの顔があった。
明日からはもう会えないと思うと、こみ上げてくるものがあったが、何を話しても言い尽くせないような気がした。
別れはいさぎよい方がいい。
「7年間ありがとう。さようなら。」
それだけ言うと、一礼をして席へ戻った。
生徒たちの温かい拍手に目が潤んだ。
歌って良かったと思った。
退任式も終わった午後、退学した生徒とその母親が訪ねてきた。
不登校気味のその子はクラスに溶け込めず、結局1年生の末に退学してしまった。
退学までの半年ほど、私は教育相談員として、彼や母親そして同じく不登校気味の中学生の妹と何度も話をした。
しかし、彼を学校に戻すことはできなかった。
いかに自分が無力か、学校というところがいかにやっかいな所かというのを身にしみて感じた。
当時の私は、彼を必死で学校に引き戻そうとしたが、今にして思えばもっと違う語りかけ方が有ったと思う。
だが、その時の私にはそれが分からなかった。
母親は「お世話になりました」と、小さな紙袋を置いていった。
中には、私には不釣り合いなくらいに上品な、白いオルゴールが入っていた。
オルゴールの蓋を開くと、何という偶然か私が歌った歌と同じ曲が流れた。
オルゴールの素朴な音色で聴くと、曲はいよいよ心に染みる。
ふと「母親はどんな思いでこの曲を選んだのだろう」と思った。
学校という枠から飛び出した我が子二人を愛情一杯に包みながら、必死で暮らす親の気持ちを思うと、切なさが募った。
(追記)
この退任式から12年後、私は次の学校で定年を迎え退任式で同じ歌を歌った。
今回はギターのうまい同僚が伴奏を引き受けてくれ、早朝にリハーサルも行って万全の態勢で臨んだ。
だが、早朝の声の高さに調整した伴奏はとても低い音程で、本番の私は低い声が出せず、惨憺たる歌の披露となった。
何事も思い通りにはならない。
私の教員人生を象徴しているかのような幕切れだった。