ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第69夜 雪の日のサンダーバード

数年前の冬、私は未明に自宅を四駆の軽トラで出て阿蘇へと向かった。
熊本の東にある大津町から、外輪山へと延びるミルクロードを走る。
急カーブが幾つも続き、木立の中をくねくねと登っていった。
バイクで走ったら最高のルートだろう。


実際、阿蘇を観光する多くのバイカー達がこの道を通る。
だが、急カーブの何カ所かには、よく花束が置いてある。
カーブを曲がり切れずに自爆したバイカーに捧げられたものだろう。

その正月、この道に雪が降った。
昼に融けたものの、日陰では路面が乾ききれていない。
早朝の出発は、夜の冷え込みの後、道路がどうなっているかを確認するためだった。


車を降りて、カーブの濡れた路面を見た。
かすかなアイスバーンと言えないことも無いが、氷の層は薄い。

足先で擦っても滑るという程ではない。
でも、所によっては少し滑るような、滑らないような・・・
どうにも微妙な感覚だ。


スタッドレスを履いた四駆の軽トラだと安心してカーブも走れたが、2輪駆動の車はどうだろう。
冬季はチェーン規制なので、全車スタッドレスは履いているはずだが・・・
さて、なんと報告したものだろう。


私の報告次第で、この道は通行止めとなる。
そうなれば、通勤者も観光客も大きな影響を受けるだろう。

私は優柔不断な性格だ。
いざという時に決断ができない。
そして下す結論は、いつも他人の顔色を窺うかのような、頼りないものだ。
そしてこの日私が下した決断は、
スタッドレスなら通れるだろう。本日は通行可!」というものだった。


道路を管理する土木事務所に報告を終えると、自宅でゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
すると、携帯が鳴った。

「ミルクロードでスタックした車が多数発生し、渋滞ができています。至急、出動願います。」

私の判断は、いつも甘い・・・

会社の同僚と、融雪剤をダンプと軽トラに積んで出発した。

ミルクロードの入り口を、車が入らないように封鎖して登っていく。
外輪山の上部まで来ると、路面には少しではあるが雪が積もっていた。
朝は無かった雪だ。

また、その付近は路面も凍結していた。

 


軽トラで渋滞の列の先頭まで行く。
横向きになったトラックが道を塞ぎ、そのすぐ後ろのバスはスリップして、前にも後ろにも行けない状況だ。
その後には乗用車が十数台並んでいた。
多くの人が困り果てた顔で途方に暮れている。


私は「通れる」と言った自分の判断を後悔した。
結局この日は、さらに数社の応援を頼んでの一大救出作業となった。


融雪剤の散布作業中、私の軽トラは広い作業範囲を往復しながら状況把握をすることになった。
スタックした車の乗客は、ただ待つより他にない。

そして通りかかった私に対する質問は皆同じだった。
「いつ頃、通れる様になりますか?」


鉄道などの交通機関が止まった時、乗客の不満で一番多いのは、「何の案内も無かった」というものだと聞いたことがある。

私は車で巡回しながら、
「作業車が来ました。」       「融雪作業中です」
「あと1時間ほどで開通予定です」と、伝えて回った。
(実際には、開通したのはその二時間以上後だったが・・・)


すると意外なことに、みんなから
「ありがとうございます」と礼を言われた。
救出に努力している作業員への感謝の気持ちなのだろう。


私は二重に申し訳なさを感じた。
元はと言えば、この混乱を招いたのは私だ。
それなのに、誰も不平を言うものがいないばかりか、礼まで言われた。


救助を待つ間、車の乗員たちは様々に過ごしている。
車内で待つ人、作業の様子を見に来る人、若い男性の三人組は外で雪合戦をしていた。

そして、やっと開通して車が走り出し、みんなほっとした笑顔で去っていった。
最後の一台は若者三人が乗る車だった。

三人は私に向けて敬礼をしながら去って行き、私は少し誇らしい気持ちになった。

 

ふと、少年の頃見たテレビ映画を思い出した。
サンダーバード(国際救助隊)」だ。


彼らの格好いいロケットと違って、私の相棒は軽トラだ。
だが今日の愛車は輝いて見えた。

 

youtu.be

(追記)

サンダーバードは武器を持たない。


中学生の頃、社会科の時間に自衛隊について討論をしたことがある。
結局、みんなが出した結論は
自衛隊は武器ではなく救援装備を持ち、全世界の災害救援に行くべし」だった。

日本国内でも、災害発生の際に自衛隊は非常に頼りになる。
もし日本が武器ではなく救難装備を持ち、世界での多数の救援実績を重ねれば、世界の対日感情はとても良くなるだろう。

そして世界中の軍隊がそうなれば、どんなに素晴らしい世界になるだろうか。

ふとそんなことを思った。

第68夜 人を愛すること

未明、久しぶりに朝から雨が降った。
雷鳴と窓を打つ雨音を聞きながら、夢を見た。

雨の降る田舎道の軒先で、私はメグミさんともう一人の女性と3人で話をしている。
用件がすんで女性は去り、メグミさんと私も分かれようかという時になって、私は迷った。
メグミさんがこの後死んでしまうことは分かっている。
彼女に何と声をかけようか。
何の言葉かけも無しに永遠に別れることが辛かった。

すると彼女が「同級生がやっているお店が有るんだけど、お茶でも飲みませんか」と言った。
良く見ると、民家だとばかり思っていた目の前の家は、古民家を改装したカフェだった。
二人で店内に入ると、古い日本家屋の壁は地中海風に白い漆喰で塗られ、床には洒落たレンガが敷きつめられている。

この白壁はジョンが古民家を買った時、ジョンと二人で塗った漆喰と同じだ。


いつの間にか私の脇に、アメリカにいるはずのジョンが立っていた。
三人で奥へと進む。
久しぶりに楽しい会話ができそうだ。


そこで目が覚めた。


まだ、外は暗い。
だが寝る気にはなれなかった。
雨音を聞いていると、昔の事ばかり思いだす。


先月、仲の良かった近所の先輩が急死した。
彼は私より一歳上で、まだまだ働き盛りだった。
酷暑の現場作業を終え、繁華街で楽しく飲んでいる最中の事だったらしい。
本人にとっては幸せな死に方かもしれないが、突然の死は周囲に大きな喪失感を残す。


昨日は、メグミさんと仲の良かった友人から久々にメールが来た。
彼女とメグミさん、そしてもう一人を含めた3人は三姉妹を名乗るほどに仲が良かった。

だが、末っ子のメグミさんを失い寂しくなってしまった。
命日も近い今月、みんなで初めて墓参りに行こうという事になった。


メグミさんの娘さんは、もう小学3年生になったろうか。
我が家に遊びに来る孫娘が同じ年頃だ。
孫を見ていると、「この子の幸せのためなら死ねる」と無条件に思う。
そして、メグミさんの娘さんの事を想像する。

もの心ついた時から、母のいない人生を送ることになった彼女の気持ちを思うと辛い。
「なぜ、この子を残して」と思う。

 

しかし、私にはメグミさんの死を止めることはできなかった。


死の半年前に、久々に彼女から年賀状が来た。

だが筆無精の私は返事を出さなかった。


「もし、年賀状の返事を出していたら」と悔やむことがある。
そして、これまで自分が経験してきた、人との様々なすれ違いを思い起こす。


人生は人との交わりとすれ違い、そして後悔の積み重ねかも知れない。
そしてその無念は、人とのつながりを信じることでしか癒されない。


もし、娘さんに会うことができたら、お母さんの思い出をいっぱい話してあげたい。
どんなに素晴らしい人だったか、どんなにあなたを愛していたか。
そして、今もきっとあなたを見守り続けている事を。

 


激しい雨も落ち着き、かすかな遠雷の音を聞きながら、幼子の幸せを祈った。

 

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第67夜 正しいことを言ってはいけない世の中

気が重くなるニュースを聞いた。
SNSで「外国人差別反対」を訴えた鶴ヶ島市の市議会議員に、殺害予告が届いた。
市庁舎の爆破予告もあったらしい。

このような暴力に対して立ち向かうならば、市議会は「暴力に負けず戦う」という宣言をすべきだろう。
だが市議会は逆に、「差別反対」を訴える議員に対して、「市議の肩書きで差別反対を訴えないように」と議会で決議した。
同時に、子どもに議会の大切さを教える行事「子ども議会」も、安全のためとして中止した。
暴力・脅迫に負けて、正義を訴える側を黙らせようとしている。

 

未来を支える子ども達はこの事から何を学び、どんな大人になるだろう。

 

差別や暴力の最大のものは戦争だ。

明日は広島の原爆から80年。

あの時代と、あまり変わっていないのかも知れない。

 

家族の安全を願い、日本が幸せな国になることを願いながら死地に向かった兵士達の死を、私達は無駄にしてはいないだろうか。

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第66夜 慰霊のために(もの言う生者)

道に迷いながらやっと辿り着いたお寺は、住宅街の中にあった。
すでに夕刻だったが、日射しはまだ熱を持っている。
だが菩薩像は、優しい木陰に包まれ、5月に作られたばかりの新しい祠に涼しげに納まっていた。

お寺の方に挨拶をして、まずは菩薩像にお参りをした。
観音菩薩とばかり思っていたが、像は普賢菩薩だった。

不信心な私は、神社やお寺の参拝でもあまり真剣に祈ることはない。
だが今日ばかりは何か胸に迫るものがあり、目元が涙で滲んだ。
若くして亡くなった者達が、哀れでならない。

 

心配していた「顕彰碑」の文字はどこにも見当たらなかった。
菩薩像の他にあるのは、義烈空挺隊の説明板と、菩薩像建立に至る流れの説明板だけだ。
あくまでも慰霊のための施設に見えた。
英霊達がゆっくりと休める様に思えて、嬉しかった。

「顕彰」の言葉は、式典の際のインタビューで一部の参加者が発言しただけなのかも知れない。

 

だが、改めて戦争被災・平和に関する施設の有り様を考えさせられた。

これまでいくつかの戦争・平和に関する施設を見てきた。
その展示の多くは、戦争の悲惨さを伝え胸を打つものだった。
だがその中には、「これは慰霊では無くて、戦争賛美では無いか?」と思えるようなものもあった。

特攻隊を例にとっても、兵士の苦悩や遺族の悲しみに焦点を当てるのか、「国」を守ろうとする愛国精神を強調するかで、展示の意味は大きく変わる。

 

「昔は良かった。美しい日本を取り戻そう」
良く聞く言葉だ。
しかし、昔の何が「良くて」何が「悪かった」のか、きちんと結論付けている資料館はあまり無い。

「戦争は悲惨だった」とは誰もが知っており、展示でも強調される。
だが、その戦争はなぜ引き起こされたのかを説明するものは少ない。


それは、今もなお少なからず存在する復古的勢力に、展示する側が配慮しているためかも知れない。
その意味では、ナチスの行為をはっきりと断罪する、ドイツの戦争資料館には劣る。


今回の参拝は、「顕彰」の言葉に不安を感じてのものだったが、今後自分が何を行っていくべきかを確認する良い機会となった。

もの言わぬ死者に代わって私達がものを言うことが慰霊であり、未来に生きる子ども達への責任だと改めて思った。

 

外国人排斥のための政治的デマすら蔓延する今、異質な者は「非国民」として攻撃される時代が、再びやってくるかもしれない。

まだ今なら、多少は自由にものを言う事ができる。

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(追記)

共感した動画があったので、上記に紹介しました。

ものが言えない社会ができる手順は、いつの世も同じ様です。

しかし、この政党だけが危険ではないでしょう。
同じような政治勢力は幾つもあります。

第65夜 また来る夏(もの言わぬ死者達)

特攻に行く前日、二人の兵隊が世話になったおばさんの所へ挨拶に来た。
一人の兵隊が、ぽつりと言った。
「(特攻に)行きたくないなあ・・・」


先日、テレビで放映された番組での1コマだ。
きっと僕も同じ言葉を呟くだろう。
そして、ほとんどの特攻兵は同じ気持ちを持っていたのではないかと思う。


夏になると、いつも思う。
過ちを二度と繰り返してはいけない。


先日(7月21日)、義烈空挺隊の特集を熊本の放送局(KKT)が放映していた。

番組では、義烈空挺隊は熊本の健軍飛行場から沖縄へ飛び立った「特攻隊」として紹介してあった。


特攻隊の定義を狭く解釈すれば、義烈空挺隊は「特攻隊」では無い。
空挺隊は、沖縄の米軍への破壊工作を任務としており、死ぬことは命じられていない。
だが、敵の飛行場に胴体着陸をして破壊工作をするという作戦は、事実上の「特攻」でもある。

番組では隊員達が通った銭湯の女主人や家族との交流が紹介され、隊員達が生前に寄付した資金を元に、慰霊のための観音像が戦後に建立されたことが紹介された。
観音像は長らく銭湯の敷地内にあったが、銭湯の閉店に伴い、ゆかりのある寺(浄圓寺)の敷地に移設された。

移設には全国から浄財が集まり、これを機に空挺隊遺族や女主人の子孫たちとの交流が深まった。
無念の死を遂げた若い隊員達も、喜んでいるかも知れない。


だが・・・
番組を見て、気になった点がいくつかある。
観音像は「顕彰碑」として移設された。

顕彰とは、隠れている「良いこと」を明らかにし、「他の人もやりましょう」と勧めることだ。
隊員達は「良いこと」をしたのだろうか。
彼らの大半は特攻などしたくなかったはずだ。
もし顕彰するならば、それは特攻を考え出した人間だろう。
特攻を命じた人間こそ、「顕彰碑」を建立して末長く記憶されるべきだろう。
無念の死を遂げた隊員達は、安らかに眠らせてあげたい。


また、移設の式典で挨拶をした人物の言葉も気になった。
彼は「今後、日本国民の意識啓蒙に努める」と言った。
啓蒙とは、「無知の人を啓発して、正しい知識に導くこと」だ。
今の日本国民は「特攻の精神」を忘れた無知な人間ばかりなのだろうか。

 

何が「正しい」のだろう。

特攻に行くことが正しいのか。
「行きたくない」と本音を言うことが正しいのか。


今後「啓蒙」は、どのように行われるのだろう。


同じ問いは、私にも向けられる。


明日、私は浄圓寺の「慰霊碑」に参拝しようと思う。

英霊達に祈り・・・
そして・・・
私は何をすべきだろう。

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曲名:カヴァティー

(映画ディア・ハンターのテーマ)

第64夜 カッチーニのアヴェ・マリア(メグミさん)

カッチーニアヴェ・マリアの歌詞は、アヴェ・マリア」という言葉をひたすらに繰り返すだけの不思議なものだ。

しかしその旋律は、静かな聖堂に差し込む一筋の光の様に、聴く者の心を震わせる。
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メグミさんと初めて会ったのは、もうずいぶん昔だ。


生徒も下校した秋の昼下がり、携帯が鳴った。
知らない番号からだった。


 『突然の電話で済みません。神川と申します』

素敵な声だなと思った。
柔らかで深みの有るアルトだ。

『そちらの学校に通う高校生の事で、ご相談があるんですが』

 

当時の私は、校外の機関と連携しながら、夜の学習会の運営や、不登校生徒の指導に関わっていた。
用件を尋ねたが、あまり他人に聞かれたくない内容らしい。
仕方なく、学校近くの教育集会所で会うことにした。
今日こそは早く帰宅できると期待していた私は、重い足取りで向かった。

 

そろそろ勤務時間も終わろうかという頃、メグミさんはやってきた。
ショートヘアーの、笑顔の爽やかな人だった。
私は急に元気になった。
(幾つになっても、男は煩悩から抜けきれない・・・)

 

彼女の話は少し込み入っていた。
メグミさんはK中学校の教育相談員として不登校生徒の指導をしている。
一人の中学生が、私の高校に通う姉のことを心配してメグミさんに相談をしてきたらしい。

姉は携帯電話を通じて怪しげな人物とつきあい始め、親にも内緒のその交際を妹に打ち明けたそうだ。
話を聞いた妹は心配になって、一番信頼するメグミさんに相談してきた。
しかしメグミさんは姉と繋がりは無く、また高校に連絡すれば姉にとって不利な状況にもなりかねない。
どうしようかと悩んで同僚に相談したところ、私を紹介されたという。

 

『草野さんは、口が堅いし頼りになる方だと紹介されました』
「いやー。それほどでも」
 頭をかきながら、私は鼻の下を伸ばした。


しかし、それほど私のことを知っている人物がK中学校にいたろうか?
それに私の口が堅いのは素面の時だけだ。
その人物は、きっと私のことを余り知らない。


聞けば私を推薦した人物は、先日私が研修会で初めて会ったばかりの二人組だった。
朝から夕刻までのレポート研修に、私は弁当を持参して参加した。
ほとんどの参加者は昼休憩に外食に出た中、K中学校から来た二人の女性教員と私の三人だけが会議室で弁当を広げた。
休憩時間に話が弾み、今後もよろしくと互いに携帯番号を交換したのを思い出した。
おかげで、こんな厄介な話が舞い込んでくる。
私は女についつい気を許してしまう自分の性格を呪った。


私は仕方なくメグミさんの相談に乗った。
二人でああでも無い、こうでも無いと思案を巡らしたが、結局は
「今から、妹に会いに行こう!」という事になった。

 


秋の夕暮れは早い。
2台の車を並べて妹の自宅へ着いた時、すでに陽は沈んでいた。


メグミさんが妹を外へ連れ出し、私のワゴン車の中で三人で話をした。
それから小一時間ほど、いろんな方法を三人で考えた末、

「妹が姉に自分の心配をぶつけてみる」ということに無事落ち着いた。


妹は教室に入れず、登校してもいつも別室登校だと聞いたが、思いのほか芯の強い性格の様だ。


長時間の話を終え、空きっ腹を抱えた私が(やれやれ、やっと帰れる)と話を切り上げようとした時、別な話が始まった。


「明日は学校へ出ておいでよ!」とのメグミさんの声かけに、
『・・・』
妹は言葉を返さなかった。


それから、また長い話し合いが始まった・・・

沈黙の多い会話を根気強く重ねながら、メグミさんの様々な励ましに、妹は最後には笑顔になった。
部外者ともいえる私だったが、笑顔を見てほっとした。

空腹と疲労感に包まれながらも、私は久々に何かを成し遂げたような気持ちになった。

 

母親に妹を返した後、田舎道から国道まで二台の車を並べて走りながら、
「今日は良い仕事ができた」と嬉しくなった。
それにしてもメグミさんと妹の会話を聞いていて、これほどまでに生徒と職員は信頼し合えるものなんだと感心した。


私は彼女のことをもっと知りたくなった。
国道に出る直前の交差点で止まると、私は車から出て彼女の車へ近づいた。

「もうかなり遅い時間ですけど、お腹空いたんで、一緒に飯でもどうです?」


すでに時刻は9時に近かったし、我が家には妻も待っている。
ましてや、メグミさんも自宅で夫が待っていると聞いたばかりだ。
普通なら、出会ったばかりの男女が夜一緒に飯を食うなどということは考えられない。
だがその時の私には、男女という関係性は気にならなかった。


「良いですね。丁度私もそう思っていたんです!」

彼女は明るい笑顔で快諾した。

行きつけのうどん屋に行き、空腹の私はボリュームの多い親子丼定食を頼んだ。
すると彼女も同じものを頼んだ。
彼女もこの店で、よく同じメニューを頼むことが多いという。
それから二人でいろんな事を話した。


彼女は臨時採用の職員で、これまで様々な仕事をしてきたこと、教育相談にやりがいを感じていること、生徒が心を開いた時の喜びや苦労等々・・

私よりよっぽど筋金の入っている教育者だと思った。
校外の人間と接すると、時としてこんな魅力的な人物に出会うことがある。
これだから、人生は面白い。
こうして、メグミさんとの長い付き合いが始まった。

それから、もう20年以上が過ぎた。
この間いろんな事があった。

 

彼女との次の共同作業は、メグミさんが人権教育の全国大会で報告をすることになり、そのサポートだった。
K中学校の二人の女性教員とメグミさんは、「三姉妹」を名乗るほどに仲が良かった。
これにK中学校の職員や私も加わって、レポートの検討会を開いた。


人権教育のレポートは、生徒との関わりの事実を書き並べるだけでは無い。
自分の教育観、人生観、さらにはこれまで自分が生きてきた「生き様」をさらけ出し、自分自身を問うていく。
報告者と質問者は互いの人生観をぶつけながら議論をし、何が正しい道かを探っていく。
当時の私はそんな仕事が多く、深夜の残業や神経をすり減らすようなことも多かったが、おかげで多くの仲間を得ることもできていた。

 

議論の中でメグミさんの生き方・考え方を知る事ができ、会の後には焼き肉屋で打ち上げを行ったりと、交友は深まっていった。


また、互いに共通の友人もいた。
アメリカ人の英語教師ジョンは、私の高校とK中学校を掛け持ちで授業をしていた。

ジョンは日本人の女性と結婚し、披露宴には私達も招かれた。
ジョンの引っ越しの手伝いをしたり一緒に飲んだり、公私を通して付き合いがあった。

 

またメグミさんはいろんな社会活動に熱心で、私たちもよく巻き込まれた。
彼女は、突如として様々な組織を立ち上げ、教員や卒業生、市会議員なども巻き込んでひたすら突っ走った。

だが、ある日突然に「折れて」しまう。

彼女は「躁」の時期には八面六臂の活躍をし、「鬱」の時期には深く沈んでしまう。
学生の頃からこうなんだと自分でも言うのだが、なかなかコントロールできないらしい。


高校受験の季節になると、彼女はいつもいろんな不登校の子を引っ張ってきた。
生徒と三人で定時制高校を訪問して、職員からいろんな話をしてもらった事があった。

名物教員として知られる彼の話は面白く、うつむいてばかりだったその子は初めて笑顔を見せた。
帰り道に三人で入ったラーメン屋で、「私、高校に行きます!」と彼女は宣言し、メグミさんが大喜びしたのを憶えている。


別の子を連れてきた時には、少し離れた熊本市内の通信制高校を訪問した。
幾つも回ったが、思った以上に経費がかかることが分かり、入学は難しそうだった。
気落ちしながら帰路につくと、駐車場近くに小さな天神さんが有ったので三人でお参りをした。

 

雪が舞い散る中、二人は長い間手を合わせていた。
あの時、あの子とメグミさんは何を祈ったのだろう。

あの子は、今どうしているだろう。
どの子も、支えてやりたいと思う様な素直な子ばかりだった。


メグミさんとは、年に1・2度連絡があったり無かったりしながらも付き合いは続いた。
私の退職の時は、三姉妹とジョンで心のこもった慰労会を開いてくれた。


そんな彼女が四十代も半ばになってから妊活に励み、待望の子どもを得た。
ジョンの家で開いた出産祝いのバーベキューでは、メグミさんはまだ首も据わらない愛娘を抱いて幸せ一杯の笑顔だった。
ひょっとしてこの頃が、彼女が一番幸せな時期だったのかも知れない。

 

最後に会ったのは、それから数年後の冬だった。
私の自宅近くのスーパーの出入り口で、娘を連れたメグミさんに偶然出会った。
娘さんはもう三歳になっていたろうか。
夕刻の忙しい時間帯で、長話はせず互いの近況だけ話してすぐに別れた。


その年明けに年賀状が来たが、筆無精の私は返事を出さなかった。
申し訳ないと思い、後で写真付きのメールを送ろうとしたが、アドレスが変わっていて届かなかった。
月日と共に、人との繋がりも次第に薄れていくのだと思った。

 

その年の11月、メグミさんから喪中欠礼が届いた。
「誰が亡くなったんだろう?」と文面を見たが、一度では理解できなかった。


 『 妻メグミが逝去しました 』


「妻? メグミ?」

私は、はっとした。

ハガキは、メグミさんの夫からだった・・・


ハガキには、メグミさんが死んだということ以外には何一つ書いてなかった。


人が死ぬということは、こういうことなんだ。
ある日突然、何の前触れもなく消えていく・・・

 

納得できない私は、久々にジョンに電話をした。
「僕からは何も言えない。K中学時代の三姉妹に聞いてほしい・・・」
ジョンの声は沈んでいた。


次女格のミドリさんに聞くと、自死だと言うこと以外は何もわからないと言う。
「よっぽど辛かったんだね・・・」
電話の向こうで泣いていた。


その週末、ジョンの家に行って二人だけで酒を飲んだ。
ジョンは、死の数日前にメグミさんと職場で会ったそうだ。
いつも通りの快活な笑顔だったらしい。
私は、愛する娘を残して彼女が自分の命を絶つということが、どうしても信じられなかった。

そんな折に、久々にカッチーニアヴェ・マリアを聴いた。
それほど好きな曲ではなかったはずなのに、ひどく心に沁みた。

そして、なぜかこの曲は彼女が歌っているかのように思えた。
たまたま聴いた歌手の歌声が、メグミさんの声に似ていたからだろうか。


それからもう数年が経つ

私の記憶の中で、メグミさんはあの柔らかく深みのある声で、ひたすらに「アヴェ・マリア」と歌っている

彼女は泣いてなんかいない
ただ、祈っている


だが彼女は、何を祈っているのだろう

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第63夜 酔拳とドランク・バイカー・・・FJR1300

ジャッキー・チェンの映画に酔拳(ドランク・モンキー)というのが有った。
普段は弱い主人公が、酒を飲むととても強くなると言うストーリーだ。
そして、それは私も同じだ。
人見知りの私だが、酒が入るとペテン師級の饒舌になる。
さらに、バイクの話になると・・・
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知人のMさんから、ラインが入ってきた。
彼女は今、フィンランドの友人、キンモ夫妻宅に居るという。


「草野さん、キンモに代わるよ」
『キンモに!! ちょっと待って』

私は、慌てて冷蔵庫に行くとビールを二缶取り出した。


「モーイ! テツ」
キンモの声は明るかった。

しかし普段無口なキンモは、久々の東洋人との会話に、少し緊張している様にも見えた。


フィンランド語の挨拶はMoiというらしいが、おはようなのか、こんにちはなのか、いまだに分からない。
もっとも日本とは時差もあり、そんなことはどうでも良かった。


「モイ! キンモ」
私はそれだけ言うと、ビールのふたを開けた。


彼は日本語が分からず、私もフィンランド語は知らない。
そして、彼も私もほとんど英語を話せない。
彼と話をするためには、酒の力が不可欠だ。
そして彼との共通語には、酒の他にバイクもある。


彼の愛車はヤマハのFJR1300だが、冬の間はスノーモービルに乗っている。
そして明日は、彼の主催する氷上バイクレースが開かれるらしい。
昨年のビデオを見るといずれもモトクロッサーで、125未満は2サイクル、250クラスは4サイクルのようだった。

レースは2センチ(?)近いスパイクをタイヤに打って、凍った湖面の周回コースを走る。
カーブで片足を出して走る姿は、日本のオートレースに似ている。


バイクかオートバイかモトか、国が違えば呼び名も異なる。
会話の中でも、通じると思った単語がなかなか通じない。

互いに英語の単語が思いつかずに、傍らのMさんの助けを借りることが何度もあったが、そのMさんもフィンランド語が完全には分からず会話は迷走した。

それでも二人の話は弾んだ。
僅か一時間ほどだったが、楽しい時間を過ごせた。
私は、趣味を通じて人生が豊かになる事を実感した。


キンモとの出会いは一年半ほど前に、Mさんの紹介でだった。
Mさんが長年の勤務先を退職して、突然フィンランドへ留学に出かけた。
しかし、なかなか順調には事が運ばない。
職を無くし、言葉の通じない異国で不安の中にいるであろう彼女を励ますために、仲間達で「オンライン飲み会」を企画した。


彼女がパソコンを開いた場所が、ホームステイ先のキンモ夫妻の家だった。
酒が進むうちに、キンモ夫妻も宴に加わりとても盛り上がった。
それは、奥さんであるピルヨの英語力のおかげもあった。
その時キンモと私の趣味がバイクだと互いに分かり、後半は私とキンモの二人の会話(ボディーランゲージ?)がメインとなってしまった。


後でMさんに聞くと、普段無口なキンモがこれほど饒舌になったのを見たのは初めてだったらしく、びっくりしたそうだ。
趣味の力は、国も言葉も気後れも越えるものらしい。
バイクも酒も世界共通語だと思った。


キンモに自慢のバイクやスノーモービルの写真を見せてもらったので、私もお返しに「愛車」の写真を送った。
だが、撮影する時にどれを送るか迷った。
いずれも不動車ばかりだ。


納屋の中のW1は、その上に荷物が沢山載っており、とても引き出せる状態では無い。
菜園で半分雨ざらしのCBは、恥ずかしくて見せられない。
結局、軒先にある錆びだらけのエルシノアと、タンクもシートも外したままのメグロS7の写真を送った。

鉄道を趣味とする人間にも、乗り鉄撮り鉄、その他様々有るが、バイカーも同じだろう。
私の場合はツアラーでも、レーサーでも、コレクターでも無く、バイクに乗る事を想像するだけのドリーマーと言えるかも知れない。


写真を見てキンモは喜んだらしいが、Mさんの反応は違った。
「あんな錆の塊でも、直せば動くらしいですね」


うーん、興味の無い人にとっては、錆の塊なんだ・・・

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(追記)
キンモのレースのプロモーションビデオには、フィンランドのエネルギー会社の広告動画が付いていた。
森と湖の中での水力発電、自然の中に立ち並ぶ風力発電、平原に広がる太陽光発電
フィンランドは豊かな国だと思った。
キンモ達の生活がとても羨ましく感じられる。

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私の好きな曲「フィンランディア
1900年頃、ロシアの圧政下のフィンランドで、愛国心を呼び起こしたシベリウスの曲です
上から押しつけられる「愛国心」という言葉は嫌いだけど、故郷や文化への愛着は大切にしたいものです