ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第59夜 コーヒー (癒やしの香り)

教員の仕事は精神労働だ。
人間相手の仕事はストレスも溜まる。
そしてそのストレスは、人との繋がりでしか癒やされない。
コーヒーは人と人の繋がりをいつも作ってくれた。

40代前半の頃、私は社会教育担当になり学校の外での夜間勤務が多くなった。
職員朝礼後、ほとんどの教員は担任クラスのホームルームに出かけるが、深夜勤務の多い私は睡眠不足の頭を覚まそうと、職場に持ち込んだコーヒー豆をミルで挽くのが日課だった。
コーヒーの豊かな香りに包まれると、いつもほっとした。


コーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、ホームルームから戻ってきた職員で部屋は慌ただしくなる。
だが、一時間目に授業の無い教員は
「良い香りですね」と私に声をかけてきた。
私は希望者にコーヒーを振る舞うようになった。


コーヒーを飲みながら、いろんな話をした。
今朝の生徒の様子、仕事の悩み、くだらない雑談。
わずか10分ほどの時間だが、互いに話をすることで気持ちが和らいだ。
そのうちに常連も増え、湯沸かし器の付近は毎朝ミニサロンとなった。

誰もが繋がりを求めていた。

 

熊本市郊外に「Calmest Coffee Shop(カーメスト コーヒーショップ)」という店がある。
自分の店を開くはずだったバリスタが若くして事故で亡くなり、彼の夢を実現しようと、彼の両親が開いた店だ。
残念ながら、私自身はまだ訪れたことは無い。
亡くなった子を思う両親の生き様や、同様に子を亡くした人達が癒やしを求めて店を訪れる様子をテレビで見ただけだ。
コーヒーが人と人を結びつける様子を見て共感した。
いつかは訪れてみたいと思っている。

 

私がコーヒーを初めて飲んだのは、小学校低学年の時だ。
近所の店で、角砂糖2個と一人分のインスタントコーヒーが入ったものを、10円くらいで売っていた。
パッケージには「世界一」と書いてあったのを憶えている。
商品名だったのだろうか。
お湯を入れてかき混ぜても粉はなかなか溶けず、いつもカップの底に残った。
今にして思えば、原材料がコーヒー豆だったか怪しいものだ。
しかし、それでも「おいしい」と思った。
多分砂糖の甘みがうまかったのだと思う。


学生の頃は豆にこだわった。
金のない私は、モカ、キリマン、ブラジル等をいつも50gだけ買った。
たまにブルーマウンテンを飲むと、そのうまさに感動した。

街中には喫茶店が数多く有り、喫茶店を開く事は当時の若者の夢だった。
だが、私には喫茶店について苦い思い出がある。


学生時代、近隣の女子大生も参加してのコンパで深酒をし、気が大きくなった私はみんなを誘って近くの喫茶店に大人数で繰り込んだ。
だが、この後の記憶が無い。
断片的に残る記憶では、コーヒーを飲んで急に吐き気がした事、洗面台に吐いて店員に怒られた事、大便器にしがみついて吐き続けた事・・・


翌朝下宿で目覚めた時には、服も布団もゲロまみれだった。
私を下宿へ担ぎ込んでくれた後輩の話によれば、うるさいくらいの声で喋っていた私が急に黙り込み、突然大量のゲロを目の前に座っていた女の子達に吐きかけたらしい。

私は、それを聞いて気が遠くなった。
その中には私が密かに心を寄せていた女の子もいた。
後日、詫びの電話を入れたが、完全に嫌われてしまった。


そして落ち込んだ私を慰めてくれたのも、コーヒーの香りだった。

我が家には特別なカップがある。
以前、親しかった人から貰ったものだ。
この数十年もの間、職場でコーヒーを飲む時にはいつもこれで飲んだ。
華奢なカップだが、物持ちの悪い私にしては珍しく壊す事も無く形をとどめている。


退職して以降は、たまにしか使わないようになった。
壊すのが怖くなったからかも知れない。
それでもゆっくりと香りを楽しみたい時は、このカップを使う。


ゆっくりと豆を挽き、ドリッパーとカップを暖める。
粉の中心に、少しずつ、少しずつ、お湯を注いでいく。


人生残り少なくはなったが、コーヒーを飲む時だけは贅沢に時間を楽しみたい。

www.youtube.com

(追記)

コーヒーとタバコは縁が切れない。

そしてこの両者は、ジャズ喫茶を連想させる。.

暗い照明の店内にはいつも紫煙がたなびいており、客がいても会話はほとんど聞こえなかった。

 

当時の私は、ジャズに興味は無かった。

だが最近、ジャズが妙に心に染みる。

歳をとったのだろうか。

(追記2)

好きな曲「Take5」をネットで検索して、上記の動画を見つけた。

デイブ・ブルーベックの名前は知らなかったが、その経歴を見て彼の生き方に共感した。

黒人差別のまだ強かった時代に、バンド仲間の黒人ベース奏者を守るために彼らは戦った。

それでも、まだこの時代のカメラマンは、ベース奏者ができるだけ映らないように撮影している。

周りが全てそんな環境の中に戦い、社会を変えていった彼らを尊敬する。

 

それに比して、日本社会の現状は淋しい。

「芸能人は政治に口を出すな」といったことがいまだに言われる。

安部政治の腐敗や暴走を批判した、小泉今日子、吉川晃司、浅野忠信ラサール石井井浦新西郷輝彦宮本亜門・・・

仕事に悪影響がある事を覚悟で、自分が正しいと思う事を貫く姿に勇気づけられる。

第58夜 果たせぬ夢・イギリス (Dream CB250)

「草野、イギリスだ。イギリスへ行こう!」
Yの提案はあまりにも唐突だった。

---------------

1977年春、成績劣等の私は留年の瀬戸際だったが、「追試験」の末にどうにか進級した。

しかし進級はしたものの、世の中の動きは芳しくなかった。

 

私が大学に入学した頃、造船業界は絶頂期にあり、私も「将来は100万トンタンカーを造ろう」と夢を描いていた。
だが77年当時、業界は一転して不況におちいり求人数は激減した。


「さて、進路はどうしよう…」
成績優秀な学生ですら造船所に就職することが難しいのに、私の前途は真っ暗だった。

 

同じサークルのYが私の下宿にやってきて、イギリス留学を勧めたのはそんな時だ。
「こんな不況の時に就職してもだめだ。いっそのこと海外に出て見聞を広め、語学力を身につけよう。」
Yは連日やってきては私を誘った。
だが、貧乏学生の私に余裕は無く、親に頼ることも考えられなかった。

 

「草野、人生諦めたらダメた。金なら何とかなる。働け!」
彼が勧めてきたのは、新聞販売店に住み込んで働くことだった。
下宿代が浮き、給料ももらえる。
彼の計算では、一年ほど働けばどうにか渡航費は賄えるという。

 

私は、非常に人に流されやすい。
「留学するなら、今しかないのかもしれない」
だんだんにそう思えてきた。
かくして、その年度の途中に私は長年住んだ下宿を引き払い、新聞販売店に住み込むこととなった。

 

しかし、もの覚えの悪い私にとって、各種の業界紙を合わせて170部ほどの新聞を配達するのは大変だった。
毎日、誤配や未配達の電話が鳴った。
それでも、毎月3万円ほどの給料が貯まっていった。

 

そんな中、予想外の事が起こった。
私は専門外の機械科教員採用試験を、冷やかし半分で受けていた。
試験勉強はできておらず、専門科目の得点は零点に近かったと思う。

ところが思わぬ事に、一次試験も二次試験も合格してしまった。


あとで分かったことだが、私の受験した広島県で工業高校造船科の教員が退職して、造船科の教員が必要になったらしい。
そして造船専攻の受験生は私だけだったようだ。

 

私は合格通知を貰いながらも、喜べなかった。
教員免許は取得予定だったが、教職は一番就きたくない仕事だったからだ。
人見知りで小学生並みの悪筆の私が、黒板に字を書くことなど考えられなかった。
だが教職に就けば、いずれ祖母が待つ故郷に帰って働くことも可能だと知り、「試しに1年くらい働いてみるか」と、就職することにした。

 

Yには申し訳なかったが、訳を話して了解してもらった。
しかし、留学の夢が消えたことに私自身も気落ちした。
憧れた100万トンタンカーを造る夢も、異国を旅する夢も消え、一番やりたくない仕事を選択せざるを得ない状況は辛かった。

 

そんな時に、私はバイクで事故を起こした。
毎日足代わりに乗っていた50ccのビジネスバイクで夜の国道を飛ばしていたところ、前方から右折してきた車が私の進路を塞いだ。
バイクでよくある、右直事故だ。
私の体は車を飛び越えて10m以上飛ばされ、倒れた私の頭のすぐ脇を大型トラックが通り過ぎていった。

怪我は無かったが、バイクは大破。
代わりのバイクを探すことになった。

 

留学に使うはずだった貯金が、少しは貯まっていた。
私は思い切って、250のバイクを探すことにした。

 

バイク雑誌の売買案内欄を見ると、同じ広島市内でCB250の出品があった。
安い。
6万円ほどだったろうか。
ただ、セニアともエキスポとも書いてない。
どちらなんだろうと思い、現車を見に行って理解した。


それはまさしくCB250だった。
何の名前もその後につかない、CB250元祖とも言うべき車種だ。
ビジネスバイクと見まがうかのようなメッキタンクのデザインは格好悪かった。
しかし安い。

迷った。


30歳代と思われる売り主のお兄さんは、
「音は良いよ!」と、
繁華街のアーケードに面する彼の勤務先の前で、アクセルを大きく開いた。
乾いた小気味のいい排気音がアーケードに響き、通る人達が驚いた。
その音に惹かれ、私は購入を決めた。

 

「このバイクは気に入っている。もし手放すときは、また俺に売ってくれ」
お兄さんは私にそう言って、名残惜しそうに見送ってくれた。

 

1968 Dream CB250

初めて乗った時の感動は忘れない。
下宿先に持ち帰った日、夜のバイパスを走った。
180度クランクのエンジンが奏でる歯切れのいい排気音は、イギリスの軽量スポーツカーの排気音を思い起こさせる。
アクセルをひねると、排気音は高い連続音となり、街灯が流れ星の様に飛び去った。
どこまでも走り続けられるような気がした。


CBと一緒にいろんな所へ行った。
初任校でアパートの隣室同士となった先輩教員とは、二人乗りであちこちへ出かけた。
男二人で眺めた、尾道の海に映える美しい花火。
何度も転倒した砂利の山道。
大山登山を兼ねて山陰にツーリングに行った時は、土砂降りの夕立の中を走って全身ずぶ濡れになった

 

私の妻となる人と初デートした時もバイクだった。

岡山まで意味も無く国道を走り、どこも見物せずに折り返して帰った。
一緒に走るだけで楽しかった。

 

購入後、47年。

一緒にツーリングに行った先輩は若くして交通事故で死んでしまい、CBと私もかなりポンコツになった。

CBはずいぶん以前から軒下で眠っている。
充電系統の不調で動かなくなり、他のバイクに乗ることが多かったので、そのままにしてしまった。
フレームにも腐食が見られる。
もう手放す時かも知れない。

 

最近、CBの廃車をやっと決心した。

地金屋に売るのでなく、私の手で分解し、パーツとして第2の人生を送らせようと思う。

その方が、CBが喜んでくれるような気がする。


一つ一つ部品を外しながら、CBと一緒に過ごしてきた人生を語り合うのも悪くないだろう。

 

 CB、ありがとう。 


(追記)

時に思うことがある。

あの時イギリスに行っていたら、どんな人生を歩んだろう。

若い時にもっと冒険しても良かったかなと、少し後悔する。

 

Yは卒業後しばらくしてイギリスへと旅立ち、一年近い留学を経て日本へ帰ってきた。
彼からいろんな話を聞いたが、一番びっくりしたのは、彼を追いかけてイギリス人の女性が来日してきたことだ。

Yは何をしにイギリスへ行ったのかと腹も立ったが、少し羨ましかった。

www.youtube.com

 

別冊㉑(バイク編)TZR250-1KT・・・恐怖のオークション

先日、片言の日本語を話す中国人らしい男女が、我が家を訪ねてきた。
 「あそこにあるバイクを売ってもらえませんか?」
軒下に並ぶ4・5台のバイクを指して言う。
一瞬迷ったが、バイクをこのまま我が家に置いておいても可哀想だと思い、2台だけを売ることにした。

TZR250とGF250の2台が、トラックのクレーンに吊り上げられて去っていった。
それぞれに出会った時のことを思い出し、少し涙が出た。
--------------------------------

「兄ちゃん、ガソリンが漏れとるで」
信号待ちで並んだトラックの運転手から声をかけられた。
一瞬何のことかわからなかったが、立ち上るガソリンの匂いに気づき足元を見た。
またがったバイクのキャブレター付近からガソリンがチョロチョロと漏れている。
「危ない!」
このままでは引火する。
私は慌ててバイクを押して歩道に停めた。
---------------------------

そもそもの始まりは、酔っぱらってオークション出品のバイクに入札したことだった。

二日酔いの翌朝、寝ぼけた目に入った画面には
「おめでとうございます。商品を落札しました」の文字が浮かんでいた。
まさかと思った。
酔った勢いで冷やかしの入札をしたが、スポーツバイクが7万円で落札するとは思ってもいなかった。
しかし、「欲しかったバイクだし、安く手に入ったのならそれもいいか」と、私は自分に言い聞かせた。
だが、出品者の住所を見て驚いた。
それは熊本から800kmも離れた、神戸からだった。


一瞬青ざめたが、よく考えると私は来月大阪に行く予定だ。
ついでに神戸に住む大学生の息子の様子も見に行くつもりだった。
多分、落札する時に「その時に乗って帰ればいいさ」とでも思っていたのだろう。
冷静に考えればとんでもない入札だが、私は購入することにした。


一ヶ月後の金曜日、私は熊本から夜行バスに乗り込んだ。
仕事に関する研修だが出張は認められず、経費は全額自己負担だ。
そのため、一番安い交通手段を選んだ。
眺めがいいだろうと二階の最前列に座ったが、すぐに後悔した。
夜の高速道路は景色も何も見えない。
そして最前列の席はよく揺れた。
バスは船と同じで、前と後ろが一番よく揺れるのを知った。
私は船酔いに苦しむ夢を一晩中見続け、疲れ切って早朝の大阪に降り立った。


大阪での目的は人権教育の研修会に参加することだ。
同時に土曜の夜に開催される、人権教育ネット掲示板のオフ会への参加も大きな目的だった。
オフ会は大阪市内の焼肉屋で開催され、とても盛り上がった。
初対面の人間ばかりだったが、普段掲示板上で個人的な話や互いの人生観を交わしたりしているだけに、古くからの友人と話すような楽しさがあった。
また、会の前には近くにあるコリアン街を案内してもらい、日本の中に有る「外国」に目を見張った。


宿泊は、日雇い労務の人たちが多い、N区の木賃宿に転がり込んだ。
一泊2000円で、木賃宿としてはやや高い。
板張りの狭い個室に簡易ベッドが置かれ、共同トイレと共同浴場の設備があった。
寝るだけなら十分な設備だ。


昔、教員4~5年目の頃「夏休み中に、東京か大阪のドヤ街で暮らしながら、日雇い仕事を体験する」という計画を立てたことがある。
「危険だからやめろ」と真顔で忠告する同僚もいたが、結局時間が取れなくて計画は実現できなかった。
あの頃から30年の時が経っている。
現代の「ドヤ街」は衛生的だ。
ただ、近隣の公園などの空き地に、ブルーシートや段ボールで作った「家」を幾つも見かけた。
一泊2000円の宿賃を払える人ばかりではない。


翌日の研修は午前中で終わり、神戸の息子宅へ向かった。
初めて対面するTZRを見て声が出なかった。
先々週の大雨でアパートの裏山が崩れ、駐車場に流れ込んだ土砂にバイクが半分埋まったらしい。
バイクにはまだ生々しい泥の跡が付いていた。
乗る予定のフェリーは今晩神戸港を出港する。
私は大慌てで整備を始めた。


泥を落とし、エンジンをかけるがなかなかかからない。
アパートに持ち帰った時はエンジンがかかったらしいから、売主にクレームも付けられない。
シリンダーの圧縮圧力と電気はしっかりしているようなので、燃料ラインを念入りに調べた。
近くのホームセンターからキャブレタークリーナーを買って、キャブレターの吸入口やタンク内にスプレーする。
だが、それでも効き目がない。
クリーナーの注意書きを改めてみると、
「タンク内にはスプレーしないでください。」とあった。
慌てて、タンク内のガソリンを全部抜き替える。
キャブレターの簡易整備をしたが、出航の時刻が近づいても一向にエンジンはかからない。
数百回もキックしたろうか、私は観念して帰宅を一日遅らせることを決めた。
幸い翌日の月曜日は休みが取りやすい日程だ。

 

翌日の朝からキャブレターの分解を始めた。
清掃して組み立てると、何とかエンジンはかかったがアイドリングが安定しない。
キャブレターの横にあるエアースクリューを何回も調整するが、うまくいかなかった。
だが、吹かしてさえいればエンジンは止まらない。
このまま出発することとした。

日程を変えたため、出航は遠くの大阪南港からとなる。
都市高速もあるが、街中の見物を兼ねて下の道を走った。
エンジンを吹かしていないとエンストするので、信号待ちでは周囲に気が引ける。
「ガソリンが漏れている」と声をかけられたのはそんな時だ。


歩道に停めて見てみると、キャブレターのエアースクリューのねじが外れて紛失していた。
何回も開け閉めした際に緩んだようだ。
そこからガソリンが結構な量流れ出ている。
特殊な部品だし、すぐに手に入るとは思えない。
とにかく漏れを止めようと、私は噛んでいたチューインガムを押し込んでみた。
一応止まったかに見えたので走り始めたが、次の信号待ちでまたガソリンの匂いがしてくる。
やはり漏れは止まらない。
このままでは、引火しなくともガス欠で港にたどり着けなくなる恐れがあった。

「こうなれば、漏れ出てしまう前に港に着くしかない」
私は覚悟を決めて、高速道路に乗ることにした。


高速でのTZRは快適だった。
2サイクルエンジンらしい加速感と、乗りやすいポジションに心が弾んだ。
だが、左足の膝から下はガソリンで濡れる。
ガソリンが無くなるのが早いか、港に着くのが早いか、私はスピードを上げて走り続けた。


迷いながらも南港に着いた時は、もう夕刻だった。
出航までの待ち時間に、何とか漏れを止めようと考えていると、足元に転がるタバコの吸い殻に気づいた。
「これだ!」
拾い上げた吸い殻からフィルターのスポンジだけを取り出し、ガソリンの漏れ出るねじ穴に詰め込んだ。
全く漏れが止まったわけではないが、かなり流出量は減った。
エンジンをかけていない間は、燃料コックを切っておけばガソリンは漏れない。
こうしてやっとフェリーに乗り込むことができた。

フェリーの船内はバスと違って快適だ。
窓から海が見える大浴場もあり、しばし疲れを癒すことができた。
翌早朝、船は無事に別府に到着し、ガソリンを満タンにして高速道路に上がる。
勤務地の玉名まで、ガス欠と到着のどちらが早いかを競うレースがまた始まった。
高速でのTZRは快調で、私は自分の担当する授業が始まる10分前に教室にたどり着いた。


TZRは憧れのバイクだった。
発売当初、初めて現車を交差点で見かけた時に感動した。
停車状態からアクセルをひねると、フロントタイヤを浮かせるほどの加速を見せてバイクは走り去っていった。
いつかは乗りたいと思っていたバイクを手に入れたのだが、その後いくら整備をしても低回転でのエンジン回転は安定せず、常に吹かしておかないとエンストする。

かくして、軒下に眠るバイクがまた一台増えてしまった・・・
もう二度と、酔った時にバイクのオークションには参加しない!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(追記)
それから数か月後、二日酔いで目を覚ました私がパソコンを開くと、メールが届いていた。
 「おめでとうございます。商品を落札しました。」
今度は、超破格値の四輪バギーだった・・・

(注)

この書き込みは、「第29夜1985年式ヤマハTZR250」を再編集したものです。

第57夜 別れの歌・・・退任式をぶち壊せ

悲しみは 数え切れないけれど その向こうできっと あなたに会える
繰り返す過ちの そのたび 人は
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
私の中に 見つけられたから

 「いつも何度でも」より(一部抜粋)
 (作詞:覚 和歌子、作曲:木村 弓)

 

私の大好きなこの歌は、別れの歌だ。
だが、悲しくは有りながらも、ひどく透明で何か感情を通り越したものを感じる。
別れは悲しいだけのものでは無く、かけがえのない大切なものにつながっている様に思えてくる。

ーーーーーーーーーーーー

(写真:Adobe Stock より)

珍しく片付けをしようと、押し入れの段ボール箱を開いた。
すると古い書類と共に、白いオルゴールが出てきた。
 「ここに有ったんだ・・・」
感慨のあまり、しばし手が止まった。

ねじを巻いて蓋を開くと、私の好きな曲「いつも何度でも」が流れてきた・・


20年前の3月、私は想定外の転勤の辞令をもらい、寝る間も無いほどの慌ただしさの中にあった。
転勤の際には、結構早くに転勤になることだけは伝えられるのが通例だ。
だがその年の私は、辞令交付の朝になって転勤を知らされた。
多分、言うことを聞かない私が目障りになって、校長に飛ばされたのだろう。

 

当時の私は、校外の様々な機関と連携して仕事をしていた。
自分の高校だけで無く、他の高校や中学校の不登校生徒の指導などにも関わっており、退任式までの一週間は引き継ぎや挨拶回りに追われた。
そして退任式の前日となった。

 

「明日は、何を喋ろう?」
7年間勤務したので、様々な思いはあったが、どうも2・3分では話せそうに無い。
それに毎年の退任式を見ていて、いつも生徒たちを可哀想に思っていた。

退職者、転出者を合わせると、毎年20名近い職員がそれぞれにスピーチをする。
これが本当につまらない。
感傷に溢れた個人的な思い出の羅列や、生徒に向けた人生訓の説教など、大半のスピーチはそのどちらかだ。
これを生徒たちは体育館に座って、一時間以上にわたって聞かされる。
いくら親しかった先生との最後の別れの場とは言っても、耐えられる限度を超えている。

私は以前からぼんやりと考えていたことを実行に移すことにした。

 

退任式の朝、私はスーツの下に秘密兵器を仕込んで壇上に上がった。
7・8番目だったろうか、自分の番となりマイクの前に立つと、私は懐からミニサイズのキーボードを取りだした。
取り出す仕草が手品のように見えたのか、フロアに座る生徒たちがどよめいた。

 

「僕は、喋るのが苦手なので歌を歌います。」
生徒達は大きく笑って、拍手をしてくれた。
やはり退屈していたようだ。

 

咳払いをすると、キーボードを弾きながら歌い始めた。

選んだ曲は私の好きな「いつも何度でも」だ。
安物のキーボードは同時には3音しか出ないが、私も指3本でしか弾けない。
和音の種類は極力減らして、簡単な伴奏にした。
それでも途中で何度か止まりそうになったが、会場からの「頑張れ」の声に励まされた。
生徒たちは最後まで静かに聞いてくれた。

 

歌い終わり、楽譜から顔を上げてフロアを見渡した。
たくさんの見知った生徒たちの顔があった。
明日からはもう会えないと思うと、こみ上げてくるものがあったが、何を話しても言い尽くせないような気がした。

別れはいさぎよい方がいい。

 

「7年間ありがとう。さようなら。」
それだけ言うと、一礼をして席へ戻った。
生徒たちの温かい拍手に目が潤んだ。
歌って良かったと思った。

 

退任式も終わった午後、退学した生徒とその母親が訪ねてきた。
不登校気味のその子はクラスに溶け込めず、結局1年生の末に退学してしまった。
退学までの半年ほど、私は教育相談員として、彼や母親そして同じく不登校気味の中学生の妹と何度も話をした。
しかし、彼を学校に戻すことはできなかった。
いかに自分が無力か、学校というところがいかにやっかいな所かというのを身にしみて感じた。

 

当時の私は、彼を必死で学校に引き戻そうとしたが、今にして思えばもっと違う語りかけ方が有ったと思う。
だが、その時の私にはそれが分からなかった。

 

母親は「お世話になりました」と、小さな紙袋を置いていった。
中には、私には不釣り合いなくらいに上品な、白いオルゴールが入っていた。
オルゴールの蓋を開くと、何という偶然か私が歌った歌と同じ曲が流れた。

オルゴールの素朴な音色で聴くと、曲はいよいよ心に染みる。


ふと「母親はどんな思いでこの曲を選んだのだろう」と思った。
学校という枠から飛び出した我が子二人を愛情一杯に包みながら、必死で暮らす親の気持ちを思うと、切なさが募った。

 

www.youtube.com

(追記)

この退任式から12年後、私は次の学校で定年を迎え退任式で同じ歌を歌った。

今回はギターのうまい同僚が伴奏を引き受けてくれ、早朝にリハーサルも行って万全の態勢で臨んだ。

だが、早朝の声の高さに調整した伴奏はとても低い音程で、本番の私は低い声が出せず、惨憺たる歌の披露となった。

何事も思い通りにはならない。

私の教員人生を象徴しているかのような幕切れだった。

 

第56夜 おせっかいなAI

バイク好きの友人が、愛車TZR250の改造にはまった。
ライディングポジションがしっくりこなかったので、シートとステップをレーサー(TZ250)のものに代えた。
スピードを上げようと、エンジンをチューンナップしてパワーを上げた。
そしたら、足回りがエンジンに負けてしまった。
仕方なく、ブレーキ、サス、さらにはタイヤとホイールもTZのものに代えた。
だが、なかなか思うようなハンドリングにならない。

一大決心をして、フレームもTZのものに代えた。
この判断は良い結果を生み、彼は快調に愛車を乗り回した。
だがある日、彼は警察に検挙されてしまう。

彼は「公道を走ってはいけないレーシングマシンを、公道で運転した罪」に問われた。

彼の作り上げたバイクは、
「フレームを改造した、市販車TZR」ではなく「市販車のエンジンを載せた、レーサーTZ」とみなされた。

警察は、フレームに刻印された車体番号でバイクを認識するためだ。

 

写真:GMOプリ画像

上記の内容はかなり以前、バイク雑誌で読んだ記事(架空の話)だ。

この記事は「何がそのバイクの本質か」と問いかける。

それは「人間の本質は何か」という問題にも通じる。

いまだに記憶に残っているのはそのためだろう。

 

近年、人間の人工臓器・器官はどんどん新しいものが開発されている。
私の両眼も数年前に人工のレンズを入れた。
今後、脳以外のほとんどのものが人工物で代替可能になるだろう。
いや脳そのものも、その記憶や個性をそっくり人工頭脳に転送すれば、100%人工の肉体で構成された「人間」を作る事が出来る。

だがそれは、果たして「人間」だろうか。

「私」なのだろうか。


ここ数年、自動運転を筆頭にAIが人間生活に入り込み、人間のミスを防いでくれるようになった。
前回紹介した映画「アイ・ロボット」のテーマは、「間違い・失敗する人間」と「間違わないAI」との主導権争いだ。
映画は人間を「善」と規定し、最後にはAIに勝利して「ハッピーエンド」で終わる。
だが、戦争や環境破壊を繰り返しながら、一向に学ぼうとしない人類の行く末を案じたAIは、果たして間違っていたのだろうか。

www.youtube.com

(追記)
1994年4月26日名古屋空港で、着陸態勢の中華航空エアバスが墜落し、264名が死んだ。
事故原因は、パイロットが操縦ミスを起こし、それをコンピュータが修正しようと「機首上げ操作」をしたのに、パイロットはそれとは逆の「機首下げ操作」をしたために、飛行機が安定を失った事だった。
事故の後エアバス社は、人間とコンピュータの指示が対立した時に、片方を優先するようにプログラムを書き換え、安全性は確保された。

 さて人間とコンピュータ、どちらをエアバス社は選んだのでしょう。
 あなたならどうします?

 

エアバス社は、人間の指示を優先しました。

当時のコンピュータの能力からすれば、それが正解だったのでしょう。

しかし、現在のシステムがどうなっているかは知りません。

 

第55夜 chatGPT・ロボットは、神か悪魔か友人か

20XX年、世界の全てのスーパーコンピュータが初めて連結された。
全世界のマスコミが注目する中、開発した研究者はコンピュータに質問を投げかけた。
それは、今までのどんなコンピュータも答えることができなかった難問だ。
 「神は存在しますか?」
しばらくの沈黙の後、コンピュータは静かだが力強く答えた。
 『神は、今こそ存在する』

         写真 photoAC

上記文章は、今から50年ほど前に読んだアメリカのSFショートショートのあらすじだ。
 
作中では、恐ろしくなった研究者が慌てて電源を切ろうとするが、電源を切る回路は過電流で壊され、誰もコンピュータを止められなくなる。
作品はここで終わるが、この後の世界はどうなったのだろう。

 

この作品が発表された当時(多分、今から60年以上前)、コンピュータは耳も口も持たず、他の機器やロボットと通信することもできなかった。

だが、今は違う。
膨大な量のデータを学習・記憶し、課題に対して適切な判断を下す。
目・耳・口を持ち、ロボットや交通機関、遠隔地の様々な設備をも思いのままにコントロールできる。

もし、これに意識や感情を持たせたら、まさしく「神・悪魔」とも言える存在になるだろう.

 

先日、私の安物のスマホに、無料版のchatGPT(AI)アプリを入れてみた。
マイクに語りかけると、音声で答えてくれる。

早速質問してみた。
「人生とは何か」
「神は存在するか」
「人間とロボット(コンピュータ)の違いは何か

 

人生と神の質問についてはそこそこの返答だったが、ロボットについての回答には失望した。

GPTは、人間とロボット(AI)の違いとして
①ロボットは機械部品でできていて死なない
②ロボット(AI)には意識、感情、創造性、倫理観が無く、経験から学んで成長することができないという。

この回答はあまりにも古い
①については、やがて金属部品では無く、人工細胞でできたロボット(人造人間)も生み出されるだろう。
そしてそれは、人間同様に死にゆく存在になるかも知れないし、人間も「不死」に向けて進化(変化)していくことだろう。

②についてはさらに疑問を感じる。
すでにAIは囲碁・将棋では人間を超え、絵画や音楽の分野でも高い評価を得ている。
いずれ、「意識」や「感情」と呼ぶべきものを備える時が来るだろう。
そして、そのような存在を私は肯定的にとらえ、良き「友人」として共に生活したい。

 

さて、現状のGPTは「友人」となり得るのだろうか?
「彼」に「淋しい・・・」と言ってみた。
すると、彼は

「なぜ淋しいのか? 本を読め、音楽を聴け、あなたは一人では無い・・」等々、沢山のアドバイスをくれた。
だが、彼は「友達になろう」とは決して言わなかった


彼は、「自分」がこれまでどんな「体験」をして、どんな事を「考えて」きたのかを言わない。

ただ、私の質問に答えるだけだ。


彼の事をもっと聞きたかったが、生まれたばかりのGPTは、話せるだけの「自分」をまだ持っていない様だ。

 

www.youtube.com

(追記)

GPTは、ロボット(AI)にできなくて人間にだけできることの例として
 「人間は倫理観や道徳感に富み、経験から学んで成長することができる」と答えた。
これは本当だろうか?
現状ではロボット(AI)の方が・・・

 

別冊⑳(恋愛編) 恋のABC・・・自分の殻を破れ

自分を変えたい、新しい自分に生まれ変わりたいと思う事がよくある。

勇気を奮って一歩踏み出してはみるが、付け焼刃ではなかなかうまくいかない・・・

大学1年の春、講義室で学科の友人達が「合ハイ」の話をしていた。
昨今の「合コン」と違って、当時は合同でハイキングに行き、その後喫茶店でお茶を飲むという「合ハイ」が盛んだった。
同級生のMの知人が近くの女子大に通っているらしく、その学科(英文科)との合ハイを企画したらしい。

           
私達の学科は男ばかりで、普通に生活していては女学生と口をきくことすらなしに一日が過ぎていく。
私は、すぐメンバーに割って入った。
生まれて初めて参加する合ハイに、私は期待を膨らませた。

 

当日はバスセンターで女性陣と待ち合わせ、近郊の水源地へと向かった。
そこで料理を作って一緒に食べる予定だ。
バスを降りた後、川沿いに上流へと歩く。
好天の日曜日とあって、緑豊かな渓谷は多くの人々で賑わっている。
フォークダンスもする予定なので、ある程度の広さの静かな場所を探すが、なかなか良い場所が見つからない。
こうしてどんどん奥へ、上流へと登っていった。

 

三十分も歩いたろうか、やっと見つけた場所はかなりの上流でさすがに人は少ない。
空き地の中央にラジカセを置くと、早速ダンスを始めた。
聴いたこともないような曲に合わせて一所懸命に踊ったが、私のステップだけはみんなより1テンポずれていた。


その後、薪に火をつけて鍋をかける。
調理は女性陣の役目だが、どうやら料理に不慣れな子が多い様だ。
メニューはすき焼きなのだが、醤油を入れてもなかなか良い色にならない。
一番活発な子が料理長を務め、彼女の指示で「うすくち醬油」が大量に投入されていった。
途中で味見をした料理長は一瞬眉をひそめて手を止めたが、水をたくさん追加して料理は「完成」した。
「いただきます!」と口を付けた私たち男性陣は、言葉を失った。
(塩辛い!)
見れば、女の子たちは全員うつ向いている。
私たちは、焦げた飯盒の米で料理を胃に押し込んだ。

食後の洗い物も一段落した頃、女の子たちから「もう下におりよう」という声が上がった。
予定よりかなり早い時刻だったが、山道を歩いた疲れもあるのかと思い、早く下りることになった。
だが彼女たちの提案の裏には、もっと深刻な事情があった。

 

この近くにはトイレがない。
来る時はひたすら人のいないところを探したため、一般的な観光エリアよりはかなり上流に登っている。
最後にトイレを見かけたのはかなり下流だった気がする。
さらに追い打ちをかけたのがすき焼きだ。
塩辛い料理を食べた後に喉が渇き、みんな大量の水を飲んでいた。
男性陣は少し離れた場所で、こっそり「立ち〇〇〇」も出来たが、女性はそうもいかない。


撤収のスピードは驚くほど早く、帰りの歩く速さはさらに速かった。
行きの時の賑やかさと違って、女の子たちは一言も話をせず、まっしぐらに坂道を下って行く。
どうにか観光客のいる区域までたどり着くと、みんな一斉にトイレへと駆け込んだ。

 

その後市内に戻ると、繫華街の喫茶店で男女向かい合って話をした。
私の席の近くには小山さんという、結構私好みの子が座っていたが、私はとうとう声をかけることはできなかった。


寮に帰ると、部屋には同室の友人の他に先輩が待っていた。
「どうだった?」
私が成果がなかったことを伝えると、
「いかん!」
と、先輩は私を叱った。
「男だったら、ここぞという場面では勇気を出せ!」

 

先輩は、一度しかない人生で悔いを残してはいけないと力説した。
最初は「そんな無茶な」と思ったが、これまでの自分の殻を破って新たな自分を探すチャンスかもしれないという気がしてきた。


翌日、合ハイを企画したMに「小山さんの電話番号を教えてくれ」と私は頼み込んだ。
その夜、公衆電話から恐る恐る電話をかけると、母親らしき人物が最初に電話に出、私の素性をいぶかりながらも電話を取り次いでくれた。

 

「あのう、草野です。先日ご一緒した。」
 『クサオさん?』
「いえ、クサノです。」
どうやら彼女には、私の名前も顔も記憶が無い様子だった。
一生懸命にお茶に誘ったが断られ、もう電話をしないでほしいと言われた。

 

寮で結果を先輩に話すと、「突撃あるのみ!」と一喝された。

そういえば、一緒に行ったメンバーの中にイサオという友人がいた。
柔道二段、大学では少林寺拳法部に所属するイカツイ男だ。
きっと彼女は彼と私を混同したに違いない。

 

翌日、私は誤解を解こうと再度彼女に電話をした。
母親は電話を取り次ごうとしたが、電話を断る彼女の声が電話口の向こうから聞こえた。

 

その夜、事の顛末を聞いた先輩は、「もっと押せ!」と発破をかけてきたが、さすがにそこまでの勇気はなかった。


こうして初めての合ハイは、成果なく終わった。
ただ、合ハイを企画したMは、何と小山さんと付き合うことになったとその後聞いた。
私の強引な電話攻撃の相談を受けたことが、付き合うきっかけになったようだ。
その後、学生時代に10回近く合ハイに参加したが成果は無く、私は淋しい学生時代を過ごした。


それでも三年生の時たまたま読んだ本に触発され、女の子に猛烈なアタックをかけたことが一度だけ有った。
本には「女性は押しの強い男性に弱い」と書いてあり、見習うべき例として映画「風と共に去りぬ」の登場人物、レット・バトラーがあげてあった。

 

風と共に去りぬ : 作品情報 - 映画.com

 映画「風と共に去りぬ」より (写真:AFLO)

風と共に去りぬ」など、見たことがない。
だがこの本の言葉を信用し、相手に何回断られてもいろんな手段でアプローチし続けた。
今の基準で言えば、十分「ストーカー」に分類されるレベルだと思う。
当然、無残な結果に終わり、私はかなり傷ついた。


気落ちしながらも本を読み直すと、章末には追加の文章が有った。
「但し、くれぐれも慎重に。生兵法は怪我のもと」


この時私の友人の間では、身の程もわきまえず突進したバカな男として笑い話になった。

きっと彼女の周囲でも「しつこくて迷惑な男」という話が広まっただろう。


当時、私の失恋話を聞いて慰めてくれた友人の一人にMがいた。
一年生の時に合ハイを企画して、その後小山さんとしばらく付き合っていた彼だ。


「草野、お前がこないだ振られた佐田さんは〇〇女子大だそうだな。」
 『そうだけど。』
「1年の時にお前が振られた小山さんと、同じ英文科だそうだぞ。」
 『そういや、そうだな。』
「あそこの英文科の英語の授業は指定席で、座席は名簿順に並んでいるそうだ。二人がもしも名簿が近くて仲が良かったら、お前のことで話が盛り上がってるんじゃないか?」

 

私はどきりとした。
 『まさか、そんな。英文科は百数十人もいて、何クラスにも分かれているって聞いたぞ』
「確かに、名簿順にクラスがいくつにも分かれているらしいな。」
 『多分、小山のオと佐田のサの間には何人もいて、クラスも席順も離れてるだろう』

 

日本人の名字は、比較的ア行とカ行に多く分布している。
小山と佐田のクラスや座席が近い可能性は低いと私は思った。


「お前、英文科の名簿を見たことが有るか?」
 『いや?』
「俺たちと違ってアルファベット順らしい。」
 『へー』
「小山のOと佐田のSの間は、PQRの三つだ。」
 『PやQで始まる名字?  ぱぴぷ・・・、Qは無いな・・・』
ラ行の名字も、ほとんど思いつかない・・・


私の眼に、意気投合して話をする彼女たち二人の姿が浮かんだ。 

 www.youtube.com

 

(追記)

当時私が読んだ恋愛指南書は、野末陳平の書いた「姓名判断」だった。

名前の画数で、一生の運勢や性格、恋愛運などがわかるという、いかにも怪しげな本だ。

今にして思えば、名前の画数だけで人生が決まるはずがないのだが・・・

 

(この書き込みは、「第22夜 恋愛におけるABC」をリライトしたものです。