ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

別冊⑳(恋愛編) 恋のABC・・・自分の殻を破れ

自分を変えたい、新しい自分に生まれ変わりたいと思う事がよくある。

勇気を奮って一歩踏み出してはみるが、付け焼刃ではなかなかうまくいかない・・・

大学1年の春、講義室で学科の友人達が「合ハイ」の話をしていた。
昨今の「合コン」と違って、当時は合同でハイキングに行き、その後喫茶店でお茶を飲むという「合ハイ」が盛んだった。
同級生のMの知人が近くの女子大に通っているらしく、その学科(英文科)との合ハイを企画したらしい。

           
私達の学科は男ばかりで、普通に生活していては女学生と口をきくことすらなしに一日が過ぎていく。
私は、すぐメンバーに割って入った。
生まれて初めて参加する合ハイに、私は期待を膨らませた。

 

当日はバスセンターで女性陣と待ち合わせ、近郊の水源地へと向かった。
そこで料理を作って一緒に食べる予定だ。
バスを降りた後、川沿いに上流へと歩く。
好天の日曜日とあって、緑豊かな渓谷は多くの人々で賑わっている。
フォークダンスもする予定なので、ある程度の広さの静かな場所を探すが、なかなか良い場所が見つからない。
こうしてどんどん奥へ、上流へと登っていった。

 

三十分も歩いたろうか、やっと見つけた場所はかなりの上流でさすがに人は少ない。
空き地の中央にラジカセを置くと、早速ダンスを始めた。
聴いたこともないような曲に合わせて一所懸命に踊ったが、私のステップだけはみんなより1テンポずれていた。


その後、薪に火をつけて鍋をかける。
調理は女性陣の役目だが、どうやら料理に不慣れな子が多い様だ。
メニューはすき焼きなのだが、醤油を入れてもなかなか良い色にならない。
一番活発な子が料理長を務め、彼女の指示で「うすくち醬油」が大量に投入されていった。
途中で味見をした料理長は一瞬眉をひそめて手を止めたが、水をたくさん追加して料理は「完成」した。
「いただきます!」と口を付けた私たち男性陣は、言葉を失った。
(塩辛い!)
見れば、女の子たちは全員うつ向いている。
私たちは、焦げた飯盒の米で料理を胃に押し込んだ。

食後の洗い物も一段落した頃、女の子たちから「もう下におりよう」という声が上がった。
予定よりかなり早い時刻だったが、山道を歩いた疲れもあるのかと思い、早く下りることになった。
だが彼女たちの提案の裏には、もっと深刻な事情があった。

 

この近くにはトイレがない。
来る時はひたすら人のいないところを探したため、一般的な観光エリアよりはかなり上流に登っている。
最後にトイレを見かけたのはかなり下流だった気がする。
さらに追い打ちをかけたのがすき焼きだ。
塩辛い料理を食べた後に喉が渇き、みんな大量の水を飲んでいた。
男性陣は少し離れた場所で、こっそり「立ち〇〇〇」も出来たが、女性はそうもいかない。


撤収のスピードは驚くほど早く、帰りの歩く速さはさらに速かった。
行きの時の賑やかさと違って、女の子たちは一言も話をせず、まっしぐらに坂道を下って行く。
どうにか観光客のいる区域までたどり着くと、みんな一斉にトイレへと駆け込んだ。

 

その後市内に戻ると、繫華街の喫茶店で男女向かい合って話をした。
私の席の近くには小山さんという、結構私好みの子が座っていたが、私はとうとう声をかけることはできなかった。


寮に帰ると、部屋には同室の友人の他に先輩が待っていた。
「どうだった?」
私が成果がなかったことを伝えると、
「いかん!」
と、先輩は私を叱った。
「男だったら、ここぞという場面では勇気を出せ!」

 

先輩は、一度しかない人生で悔いを残してはいけないと力説した。
最初は「そんな無茶な」と思ったが、これまでの自分の殻を破って新たな自分を探すチャンスかもしれないという気がしてきた。


翌日、合ハイを企画したMに「小山さんの電話番号を教えてくれ」と私は頼み込んだ。
その夜、公衆電話から恐る恐る電話をかけると、母親らしき人物が最初に電話に出、私の素性をいぶかりながらも電話を取り次いでくれた。

 

「あのう、草野です。先日ご一緒した。」
 『クサオさん?』
「いえ、クサノです。」
どうやら彼女には、私の名前も顔も記憶が無い様子だった。
一生懸命にお茶に誘ったが断られ、もう電話をしないでほしいと言われた。

 

寮で結果を先輩に話すと、「突撃あるのみ!」と一喝された。

そういえば、一緒に行ったメンバーの中にイサオという友人がいた。
柔道二段、大学では少林寺拳法部に所属するイカツイ男だ。
きっと彼女は彼と私を混同したに違いない。

 

翌日、私は誤解を解こうと再度彼女に電話をした。
母親は電話を取り次ごうとしたが、電話を断る彼女の声が電話口の向こうから聞こえた。

 

その夜、事の顛末を聞いた先輩は、「もっと押せ!」と発破をかけてきたが、さすがにそこまでの勇気はなかった。


こうして初めての合ハイは、成果なく終わった。
ただ、合ハイを企画したMは、何と小山さんと付き合うことになったとその後聞いた。
私の強引な電話攻撃の相談を受けたことが、付き合うきっかけになったようだ。
その後、学生時代に10回近く合ハイに参加したが成果は無く、私は淋しい学生時代を過ごした。


それでも三年生の時たまたま読んだ本に触発され、女の子に猛烈なアタックをかけたことが一度だけ有った。
本には「女性は押しの強い男性に弱い」と書いてあり、見習うべき例として映画「風と共に去りぬ」の登場人物、レット・バトラーがあげてあった。

 

風と共に去りぬ : 作品情報 - 映画.com

 映画「風と共に去りぬ」より (写真:AFLO)

風と共に去りぬ」など、見たことがない。
だがこの本の言葉を信用し、相手に何回断られてもいろんな手段でアプローチし続けた。
今の基準で言えば、十分「ストーカー」に分類されるレベルだと思う。
当然、無残な結果に終わり、私はかなり傷ついた。


気落ちしながらも本を読み直すと、章末には追加の文章が有った。
「但し、くれぐれも慎重に。生兵法は怪我のもと」


この時私の友人の間では、身の程もわきまえず突進したバカな男として笑い話になった。

きっと彼女の周囲でも「しつこくて迷惑な男」という話が広まっただろう。


当時、私の失恋話を聞いて慰めてくれた友人の一人にMがいた。
一年生の時に合ハイを企画して、その後小山さんとしばらく付き合っていた彼だ。


「草野、お前がこないだ振られた佐田さんは〇〇女子大だそうだな。」
 『そうだけど。』
「1年の時にお前が振られた小山さんと、同じ英文科だそうだぞ。」
 『そういや、そうだな。』
「あそこの英文科の英語の授業は指定席で、座席は名簿順に並んでいるそうだ。二人がもしも名簿が近くて仲が良かったら、お前のことで話が盛り上がってるんじゃないか?」

 

私はどきりとした。
 『まさか、そんな。英文科は百数十人もいて、何クラスにも分かれているって聞いたぞ』
「確かに、名簿順にクラスがいくつにも分かれているらしいな。」
 『多分、小山のオと佐田のサの間には何人もいて、クラスも席順も離れてるだろう』

 

日本人の名字は、比較的ア行とカ行に多く分布している。
小山と佐田のクラスや座席が近い可能性は低いと私は思った。


「お前、英文科の名簿を見たことが有るか?」
 『いや?』
「俺たちと違ってアルファベット順らしい。」
 『へー』
「小山のOと佐田のSの間は、PQRの三つだ。」
 『PやQで始まる名字?  ぱぴぷ・・・、Qは無いな・・・』
ラ行の名字も、ほとんど思いつかない・・・


私の眼に、意気投合して話をする彼女たち二人の姿が浮かんだ。 

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(追記)

当時私が読んだ恋愛指南書は、野末陳平の書いた「姓名判断」だった。

名前の画数で、一生の運勢や性格、恋愛運などがわかるという、いかにも怪しげな本だ。

今にして思えば、名前の画数だけで人生が決まるはずがないのだが・・・

 

(この書き込みは、「第22夜 恋愛におけるABC」をリライトしたものです。

第54夜 ラグリマ(涙)・・・ギターとバイクの思い出

二学期の終業式の日だったろうか。生徒たちも帰宅して、久々にほっとした雰囲気が職員室に流れた。
すきま風の吹き込む職員室で、私を含めた何人かの職員が、ストーブの周りでお茶を飲みながら話をしていた。
すると一人が、
「そうだKさん、ギターを弾いてよ」と言った。
Kさんはギターの達人だ。
職員室にはいつも彼のギターが置いてあり、夜遅く残業が長引いた際には、気分転換に彼が曲を弾いてくれることがあった。


Kさんは照れながらも、ギターを手に取った。
「何が聴きたい?」
『任せるよ』

彼がおもむろに弾き出した曲は、素朴な優しいメロディーだった。

私はそのメロディーに聞き覚えがあるのに気づいた。
それは早朝のテレビのテストパターンのBGMだ。
テレビでは、オルゴールの音色で何回も何回も繰り返していくが、ずっと聴いていても飽きない不思議な曲だった。

 

当時単身赴任中だった私は、毎朝ラジオを聴きながら朝食の準備をした。
たまに早くテレビをつけると、たいていは本放送前のテストパターンをやっていた。
テストパターンのBGMは知らない曲ばかりだが、素敵な曲も多かった。
だが定刻になると突然画面は日の丸の画像に変わり、演奏した曲名の紹介も無いまま本放送が始まる。
そのため、名前も知らないこの曲を聴けるのは、テストパターンの時だけだった。
やがてBGMは別なものに替わり、その曲を聴けなくなってしまった。

 

Kさんが曲を弾き終わると、私はすぐに質問した。
「この曲はなんていう名前?」
『これは****て言うんだよ。』
私は初めて曲の名前を知って嬉しかった。

これで、いつでも聴けると思った。

 


だがそれから何十年もの間、メロディーを偶然耳にする機会は有っても、私は曲を聴くことはできなかった。

Kさんに聞いた曲名を、忘れてしまったのだ。

GB250 E型 クラブマン初期型自動車/バイク - 車体 さん

Kさんはバイクも趣味だ。
彼の乗るホンダのクラブマン250は素敵なバイクだった。
私もギターとバイクは大好きだ。
だが私のギターは中学生の頃に少し練習したきりで、弾けるというレベルではない。
バイクも安物買いをしては、手入れもせず錆びるにまかせることが多かった。


Kさんも私も中型免許だったが、Kさんは限定解除試験を受け合格した。
彼の勧めで私も講習会を受けた後に試験を受け、どうにか合格した。
大型バイクに憧れていた私が早速買ったのは、4万円のポンコツのナナハンだ。
初期のCB750Fだが、900ccがベースの車体は重かった。


その頃、「校内安全運転講習会」と銘打って、学校の敷地内でバイクのミニ競技会をしたことがあった。
の字やスラロームコースのタイムトライアル、一本橋の遅乗り、軽いバイクは土手の駆け登りもやった。 
その時、みんなが持ち寄ったバイクを互いに交換して乗り比べをしたりしたが、私だけは自分のバイクを貸すことも他人のバイクに乗ることもしなかった。
「四輪は貸しても、バイクの貸し借りはしない」というのが私のポリシーだったし、Kさん以外は大型免許を持っていなかった。


そのKさんが
「ちょっと乗せてくれないか?」と言ってきた。
少し迷ったが、やはり断った。
この時の判断を、私は今も悔やんでいる。

 

Kさんがギターを弾いてくれてから数ヶ月後の春、Kさんに癌が見つかった。
遠く離れた熊本市内の大病院で手術をした。
たまたま私の自宅は熊本市近郊なので、週末の帰省の時は彼の入院する病院を訪れて見舞った。

病室での話は気詰まりなので、二人で屋上に上がっては街中の風景を眺めながら世間話をした。
病気のことは話さず、バイクの話などで会話は弾んだ。
奥さんからの預かりものを手渡し、洗濯物などを持ち帰る。
そんなこともあって、Kさんや奥さんからはすっかり頼りにされるようになった。


数ヶ月の闘病を経て、彼は職場復帰した。
やがて、元のように元気に働き始めたが、半年ほど後に癌が再発した。
そして、もう手術はできないほど進行していると聞いた。

 

彼は再度熊本市内の病院へ入院し、さらに地元の病院へと転院した。
私はたまに見舞いに訪れては、生徒たちの様子を報告したが、日に日に病状が悪化していく彼の様子を見るのは辛かった。
ベッドから立てなくなった彼に、バイクの話をすることもできなかった。
見舞いも短時間になり、いつも「また来るからね」と言っては、逃げるように病室を出た。


そんな私に
「あんたと、もっと一杯話をしとけば良かったなあ」
と、彼がしみじみ言った時があった。
多分、自分の死期を悟っての言葉だったのだろう。
その言葉を聞いて、
「人は生きている間に、どれだけ多くの人と思い出を作れたかが大切なのかも知れない」と思った。

 

闘病末期に彼を見舞った時、彼は会話も辛かったのだろう
「ごめん、今日はここまでにしてくれないか」と、初めて面会の打ち切りを求められた。
私はいつものように「また来るね」と努めて明るく言いながら病室を後にした。
これが彼との最後の会話になった。


やがて、Kさんは喋るのもやっとの状態になったらしく、新しい治療法を求めて職場から100kmほど離れた鹿児島の病院に転院したと聞いた。


転院後1・2週間が過ぎた日の夕刻、自宅の電話が鳴った。
入院先の病院から、奥さんが泣きながら電話をしてきた。
もうダメだという。
最後にもう一度だけ見舞いに来て欲しい様子だった。


夜の高速を鹿児島まで走った。
車の中では音楽を聴く気にもなれなかった。
彼との思い出が次々に浮かび、あのギター曲のメロディーが浮かんだ。
「何という曲なんだろう。もう一度聞いとけば良かった。」

 

病室に着くと、奥さんと子どもさん達がベッドの脇に立っていた。
「あなた、草野さんが見えましたよ」
Kさんは、「アー」とも「ウー」ともつかぬ返事をした。
この時、私は何を話したのか憶えていない。
多分、かける言葉が思いつかず、当たり障りの無いことしか言えなかったと思う。

 

結局私は短時間の面会後、「また来るね」と言って病室を後にした。
「草野さんが、また来るってよ。」
と、奥さんが声をかけ、Kさんの「ウー」という返事を聞いたのが彼との最後になった。


熊本の自宅に着いた時はすでに日付が変わっていた。
そして、私が病室を出てから数時間後に彼は息を引き取ったと聞いた。

 

 

40歳でKさんが亡くなってから、もう30年ほどになる。
そろそろ33回忌も近い。

 

あの曲名は何だったのだろう。
ネットで曲名が分かると聞いて、何回もスマホに鼻歌を聴かせるが、私の歌が下手なのか、いつも「一致するものが見つかりません」と出た。

一度だけ曲名が表示されたことはあったのだが、翌朝目を覚ますと曲名を忘れていた。
私も歳を取ったものだ。


その後、何度挑戦しても二度とスマホは反応しなかった。
こうなれば意地だ。
youtubeでギターの名曲を検索し、片っ端から聴いてみた。

そして先月、やっと探し出した。

 

Lagrima(ラグリマ) だった。

 

数十年ぶりに聴く優しいメロディーに、Kさんの顔が浮かんだ。
彼は昔の面影のままだ。
彼のクラブマンの排気音と、ギターの音色が思い出される。


「Kさん、今度会えたら、この曲を聴きながら一緒にツーリングをしたいね。」
そんな思いが浮かんだ。

最後に彼と面会した時、そんな話をすれば良かったと、今にして思う。 

 

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(追記)

ラグリマは、スペイン語で「涙」の意味だそうです。

作曲者タレガの幼い娘が亡くなり、それを悼んで作ったと言われています。

 

第53夜 幸せな「夢」・・・勇気を振り絞って

赤いスーツを着た女性は、ステージ端に立ち報告を始めた。
私は仕事で会場の設営に来ただけなのだが、仕方なくホール最前列の隅に座った。
彼女は事件について報告し、「何らかの対処をしなければならない!」と強く訴えた。
「意見を願います!」と再度呼びかけるが、会場からは何の反応もない。

(写真提供:PAKUTASO)

改めて周りを見回すと、ここは国会だった。
そして、彼女はなぜか捜査担当の検事だ。
どうやら検事は、議員の犯罪についての捜査報告を行い、国会の改善を求めているようだ。
だが会場から一切声は無く、見れば議長はステージ中央の席で居眠りをしている。

 

「このままでは、日本はダメになります!」
検事はそう言うと、その場に泣き崩れた。

私は、このまま何の意見も無く審議が終われば、本当に日本はダメになると思った。
何とかしなければと思うが、部外者の自分が発言するわけにもいかない。
どうしようかと迷いながらも、
「国民にも言う権利はある!」と思い直し、勇気を出して手を挙げた。

 

「議長!」
私の声と重なって、中央の最前列に座る人間も声を上げた。
それは、いつもよくテレビに出てくる、私の嫌いな議員だ。
議長は彼を指名した。
その議員は、さすがに今回の事件はひどいと思ったのか、是非改善すべきだとの意見を述べ始めた。
私はそれを聞いて嬉しくなった。

 

すると、会場のあちこちから手が挙がるようになり、様々な人間が前に進み出てマイクの前で演説を始めた。
中にはどうしようもない意見を言うものもいたが、会場は「国を変えよう」との熱気に溢れた。

 

私は議論が続く国会をそっと抜け出した。
嬉しい気持ちの私の耳に、

「もう一人最初に手を挙げた、あの人間は誰だ?」という声が中から聞こえてきた。
勇気を振り絞って手を上げてよかったと思った。
外は爽快な青空だ。

そして私は目が覚めた。

 

とても幸せな気持ちで、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
「夢だったのか・・・」

幸せな夢を見て目が覚めるなんてことは、とても久しぶりだ。
一昨日から昨日にかけて激務が続き、一昨日の睡眠時間は2時間ほどだった。
さすがに昨晩は早めにベッドに入り、おかげで今朝はすっきりと目が覚めた。

 

私は、夢とは言え勇気を出して発言した自分を誇らしく思いながら、余韻に浸っていた。

だが、次第に目が覚めてくると気持ちが変わってきた。


「夢だったのか・・・」

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別冊⑲(音楽編) ボーン神父(二つの生き方)

1978年1月、聖堂の中は寒かった。
しかも、普段ですら多いとは言えない聴衆が、今日はことのほか少ない。
7~8人ほどだろうか。
広い聖堂がいよいよ寒々と感じられた。

 

つい二週間前には、ここでクリスマスミサが開かれたばかりだ。
当日は沢山の参加者で聖堂は溢れていた。
信者でもないのに勝手に紛れ込んだ私の前で、ベールを被った多くの信者が祈りを捧げていた。
だが、目当てだったパイプオルガンの出番はほとんど無く、オルガンを聴きに来ただけの私は、早々に退散した。

 

それから間もない新年早々の演奏会でもあり、正月はいつも聴衆が少ないのかもしれない。
だが定刻になっても演奏は始まらず、今日は中止だろうかと心配していると、二階の演奏席から何やら声がした。
よく聞き取れなかったが、どうやら上がって来いと言っているようだ。
私を含めた聴衆は二階へと続く階段を上がった。

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二階には演奏者のボーン神父がいた。       
彼をこんなに間近で見たのは初めてだ。
一年ほど前、パイプオルガンの無料演奏会が、ここ「広島世界平和記念聖堂」で毎月開かれていると友人から教えてもらい、それ以来私は欠かさず聴きに来ていた。
しかし二階席の演奏者の姿は普段ほとんど見えず、ガリ版刷りのパンフレットで彼の名前を見るだけだ。
彼は穏やかな話し方の、いかにも神に仕える雰囲気の人だった。


今日は客が少ないので好機と見たのか、それとも演奏の意欲が湧かなかったのか、彼はオルガンの構造を説明し始めた。
各ストップ(弁)の役割やその使い方を、実際に音を出しながら説明してくれた。
私はパイプオルガンの音色がどのように作られるのか初めて知った。
金属質の甲高い音色は、きっと専用のパイプが有るものと思っていたが、実際には僅かに周波数の違う複数のパイプの音を混ぜて作ると知り、その奥深さに感心した。
この日はオルガンの解説の後、何曲かを私たちの目の前で演奏してくれた。
特等席で聴くオルガンの音色は、忘れられない思い出となった。

 

毎月聴く聖堂のオルガンの音色は素晴らしかったが、当時の私はあまりオルガン曲を知らず、知らない曲を聴きながら退屈して居眠りすることもあった。

しかし、オルガンの重低音が大音量で鳴り響くと、コンクリート作りの聖堂の壁がビリビリと震え、その迫力にいつも目を覚まされた。

 

演奏会に毎月足を運んだが、ボーン神父にオルガンの説明をしてもらった年の春、私は就職のため広島を離れた。
残念ながらそれ以降、あの聖堂のオルガンを聴く機会は無い。

 

就職して最初に私が買ったのは電子キーボードだった。
給料のひと月分ほどの値段だったろうか。
音色がパイプオルガンに似ていたので迷わず買った。
我流の「二本指奏法」で簡単な曲しか弾けなかったが、その音色に包まれている時間は幸せだった。


私はキリスト教徒ではないが、教会の雰囲気が好きだ。
ステンドグラスの美しさ、オルガンの優しい音色、厳かな雰囲気。
だがそれだけでなく、私の心の中には「神を求める自分」がいるような気がする。
それは信仰などではなく、何か「絶対的なものへの憧れ」なのかも知れない。


高校では毎週宗教の時間が有って、仏教について学んだ。
だが仏教は信仰というよりは哲学に近いように感じ、面白かったが憧れは感じなかった。
それでも禅寺の雰囲気は好きだ。
それはキリスト教会と同じく、一心に何かに向き合う雰囲気を感じるからかも知れない。


定年で引退した今になって、中学か高校の頃に読んだヘッセの小説「知と愛」を思い出す。

修道院で暮らすナルシス(ナルチス)と、奔放な生活を送るゴルトムントの二人の生き方が対比して描かれており、当時私が共感したのはナルシスの生き方だった。
転落の人生を辿っていくゴルトムントを私は心配し、彼もナルシスのように「まともな人生」を送れば良いのにと思った。
だが死の床に就いたゴルトムントはナルシスに問いかける。
「愛のない人生を生きて、君は幸せか?」


当時の私はその問いの深い意味が分からず、ゴルトムントの人生には哀れみしか感じなかった。

だが、今の私はその問いの答に迷う。
どちらの人生の方が豊かなのだろうか?


私の生きてきた道は、彼らほど両極端ではなく中途半端なものだ。
それでも、どちらかと言えばナルシスに近いかも知れない。
この歳になって改めて二人の生き方を思う時、私の二人への憧れは当時と半ば逆転している。
自分にも、もっと豊かな生き方が有ったのかも知れない。

 

先日パイプオルガンの曲を聴いていて、
「ボーン神父はその後どうされたんだろう?」と気になった。
ネットで検索してみると、すでに亡くなっておられるのがわかった。
祖国ベルギーから日本に赴き三十数年、信仰と音楽教育に身を捧げ、最後は日本に骨を埋められた。
まさにナルシスの生き方だ。

 

ボーン神父
あなたほどではありませんが、私も善き道を探しながら人生を送りました。
あの聖堂で、もう一度あなたのオルガンを聴きたいものです。

 

 2001年7月23日 フランス・ボーン 広島に眠る

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(追記)

この書き込みは第23夜「ボーン神父」をリライトしたものです。

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別冊⑱(音楽編) 深夜のオルガン(二十歳の頃)

バイトが終わるのはいつも夜の12時過ぎだった。
ボーイ用の蝶ネクタイを外し、ワイシャツの上にジャンパーを着ると、そのまま店の外にあるバイクにまたがった。

深夜にもかかわらずネオン街は明るく、酔客の喧噪に溢れている。
店からバイクで15分も走れば下宿に着くのだが、途中で大学に立ち寄ることが多かった。
バイクを押して大学の通用門をくぐると、正面の理学部棟にはまだいくつか灯りが見える。
深夜に、実験でもしているのだろうか。
だが、体育館脇にあるサークル棟はさすがに真っ暗だ。

 

 サークル棟入り口の自販機でカップラーメンを買ってお湯を注ぐ。
木造2階建ての建物は、ひょっとして戦前から有るのではないかと思われるほど古かった。
灯りを点け、きしむ階段を上がると、広い部屋には衝立で仕切られただけの小さなスペースがいくつも並んでいる。
右へ行くと「うた仲」(歌声サークル)の部室が有り、さらに奥には探検部の部室が有る。
私はそれぞれの部室で、ラーメンをすすりながら連絡ノートの書き込みを読み、気が向けば書き込みをした。
その後、今度は一番左奥にあるグリークラブの部室へと向かう。


私は幾つものサークルを無責任に掛け持ちし、どれに対しても中途半端な活動しかできていない。
しかし、それぞれのサークルから得られる刺激や人間関係が、ともすれば「空っぽ」になりそうな自分をかろうじて支えているような気がしていた。


グリーの部室でラーメンを食べ終わると、いつもの様にボロボロの青い表紙の楽譜を手にとった。
四声だけの、簡単な宗教曲集だ。
オルガンの蓋を開け、その日の気分で適当に楽譜を開く。
大学に入って初めてオルガンに触れた私は、簡単な曲ですらまともには弾けない。
下手なオルガンを聞かれるのが恥ずかしくて、多くの学生で賑わう昼間は弾けなかった。
だが、誰もいない深夜には好きなだけ弾けた。

 
窓越しに見える、真っ暗なプールと塀の向こうに立ち並ぶビルの灯りを眺めながら、ゆっくりと自分のペースで曲を弾いた。
古い足踏みオルガンは、その日の気分に合わせて力強い音や優しい音色を奏でてくれる。

 
オルガンを弾きながら、小学生の頃に読んだシュバイツァーの伝記を思い出した。
彼は祖国を離れてアフリカの奥地に向かい、住民のための医療に奉仕した。
教会で趣味のオルガンを弾いて、神にも仕えた。
当時の私には、そんな寂しい生活に彼がなぜ身を投じたのか理解できなかった。
だがこうしてオルガンを弾いていると、彼の気持ちが少し理解できる様な気がする。
彼の人生は、寂しいばかりのものではなかったと思う。


私はバイト帰りだけでなくコンパの帰り道など、思いついては深夜に部室でオルガンを弾いた。
親元を離れ都会に一人で暮らし、時として言いようのない孤独を感じることが有った。
だが、オルガンの優しいハーモニーを聴くと不思議と心が安らいだ。

 

あれから、もう数十年が経つ。
何もかもが変わってしまった。
だがオルガンに触れると、バイト帰りに弾いたあの頃を思い出す。
今思えば、オルガンを弾いていた時間こそが、一番豊かな時間だったのかも知れない。
そして今でもオルガンを弾くと、白髪の増えた私も二十歳の自分に立ち返る。
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(追記)
この書き込みは第24夜「深夜のオルガン」をリライトしたものです。

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第52夜 善と偽善の間で・・・ジャーニー氏、高須氏、私(ついでに指原さん)

先日、高須クリニック院長の高須氏が自家用ヘリに救援物資を積み込み、石川の被災地を訪問したとの書き込みを見た。
彼は「今は被災地に行く時ではない。行くならば、衣食住の一切で自立して、現地の足を引っ張らない様にしろ」  と言っている。
その言葉は至極当然なことで納得したが、

「排泄物も含めて現地には何も残すな」との指摘は、私にとって厳しい。
1~2週間分の排泄物をため込んで活動するのは、雪中泊で自炊する以上にハードルが高い。
(私の計画では、山林に穴を掘って・・・するつもりだった。 m(__)m  )

 

高須氏自身、石川で数日を過ごしたと思うのだが、
「本当に、彼自身も彼のスタッフも、立ちション一つしなかったのだろうか?」
との疑問が湧いてくる。
彼の行ったボランティア活動に対して失礼な言いがかりをつけるようで申し訳ないが、彼が過去に行ってきた言動により、私は彼に大きな不信感を持っている。
彼の書き込みを見て、意地でも自分の排泄物を持ち帰ろうと思った。

東北震災の折、現地でジャニーズ事務所のステージ用電源車が大活躍していた。
また、支援物資が山積みされた体育館の一角には、ジャニーズ事務所からの沢山の支援物資が並んでいた。
素直に、ジャニーズは偉いと思った。
だが、最近のジャーニー氏の犯罪を巡る報道を見て、彼自身や事務所運営者への信頼感は吹き飛んだ。

 

熊本地震の時、同じように被災した大分県に向けて、大分出身の元AKB48・指原さんが、高額な寄付金を寄せた。
当時、それを賞賛する声と同時に、「売名行為だ」と非難する声もあった。
私は素直に「えらい!」と思ったが、

「近く予想される国政選挙に、○○党から立候補するための下準備かも知れない」との報道を読み、裏切られた気がした。
結局彼女は立候補はせず、彼女の寄付は全くの善意からだったのだと思う。

(指原さん、疑ってごめんなさい。)

 

そのほかにも多くの有名人が、いろんな被災地で支援に励んだ例は多い。
ある人は周囲を巻き込んで大々的に、ある人はマイペースで、中にはこっそりと行う人もいたろう。
ここでもマスコミには「素晴らしい善行だ」、「売名行為の偽善だ」との意見が見られた。

 

ジャニーズ事務所も高須氏も、被災地支援におけるその行いは素晴らしいと思う。
成果の前には、善だ偽善だの議論は意味をなさない。
善行と偽善の定義は人によって異なり、またどんな悪人にも100%の悪人はいない。
善人も同じだろう。

 

さて、私がやろうとしていることはどんな意味を持つのだろうか。
少し気になる。
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(追記)
計画していた被災地行きは、一旦中止しました。
現地の状況ではまだ素人に出番は無いようで、今は行く時ではないと判断しました。
目下、日々刻々と変わる被災地の情報に気を配っているところです。
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参考資料(北出弘紀氏のfacebook)

www.facebook.com

 

第51夜 行動する偽善者(被災地へ)・・・不真面目ボランティアの勧め

テレビ画面に映る能登の被災風景は、過去に何度も見た辛い景色だ。
倒壊した家屋、津波に打ち上げられた車、行列に並ぶ被災者・・・
それは大船渡や人吉の被災地で見た、そして熊本地震に見舞われた自分の街で体験した風景そのものだ。

石川 珠洲市 一部が孤立状態 瓦で道路に「SOS」の文字を作る | NHK | 令和6年能登半島地震

  (画像:NHKニュースより)

「一刻も早く行って、役に立ちたい」と思った。
だが、そんな思いを抱えながらも、ただニュースを見守るしかない。
年末から三が日の終わりまで、午前中は毎日仕事をしていた。
やっと仕事から解放された三日の昼、
「さあ、やっと正月だ。何をしよう」と解放感に浸った。

 

最初に浮かんだのは、「日常から離れて旅に出たい」という思いだ。
先月、中古の軽バンを買った。
後席が広く。布団が敷けるほどの広さだ。
走行距離は18万キロ近いが、車屋の言う「最近の車は30万キロくらいエンジンは大丈夫だ」という言葉に騙され買ってしまった。
(30万キロ保証が付いていると解釈していいのだろうか?)
小汚い車内をボチボチと掃除をしているところだったが、被災地のニュースを見てふと思いついた。

「被災地へ旅に出よう!」
宿泊用具と、復旧に役立ちそうな装備を積んで現地で役に立ちたい。
水や食料に困る人たちに物資を届け、人手のない集落の力仕事を手伝い、少しでも現地の役に立ちたい。
困った人たちの役に立って、感謝される自分の姿を夢想した。

 

さっそく、計画を立て始めた。
まずは現地情報の収集。
自宅から能登までは1000キロを超える距離が有る。
意外と遠いが、高速を使わなければ交通費は安く済みそうだ。

次に交通状況。
通行止めの箇所が多い。
規制線が張られて、進入が制限されているところもあるだろう。
四輪で活動できる場所は、かなり限られているようだ。

その次が、活動地域や所属先の選定。
ニュースを見て一番心を痛めるのは、山間の孤立集落の状況だ。
食料も燃料も通信手段も無く、高齢者ばかりの地域は大変だろう。
出来ればそんなところでこそ役に立ちたいが、まだ被災数日では県外向けにボランティアセンターが立ち上げられているはずもなく、どこで何をして良いかがわからない。

 

持参装備のリストアップや日程計画までは順調に進んだが、現地での活動内容と活動方法がどうしても定まらない。
ニュースの内容を見ても、私みたいな素人が今行ったら、現地の救援活動の足を引っ張ることになるかも知れない。
だが、一日も早い救援を必要としている人も多い。
どうしよう。
早ければ、5日の朝にでも出発する予定だったが、迷いが生じてすでに二晩を経過している。
現在は、情報を集めながら様子を見ている状態だ。

丸3日、何も食べとらん」 奥能登避難所へ物資届かず 本紙記者ルポ|社会|石川のニュース|北國新聞
   (画像:北國新聞

東北震災の折、労働組合からの派遣ボランティアとして、震災復興に一週間ほど出かけた。
その動機は人の役に立ちたいという純粋な気持ち以外に、旅費無料で東北に行ける、被災地の様子を見てみたいという気持ちがないまぜになった、不純なものだった。

到着初日のミーティングで、現地の役員から最初に言われた言葉に自分を恥じた。

「物見遊山で被災地に来てもらっても結構です。現地に行けば何かしたいという衝動にかられます」と言われた。
その言葉通り、被災の様子を目の当たりにした私は衝撃を受けた。

当時一緒に行ったチームメンバーの一人が掲げた合言葉は、「行動する偽善者」だった。
私たち一人一人の動機には、なにがしかの不純なものが含まれているし、そもそもボランティアは偽善でしかない。
それでも一歩踏み出す事にこそ意義が有る。
そんな様々な思いが含まれた言葉だと感じた。


今回、北陸行きを計画しているが、結局行かないかもしれない。
計画実現のためのハードルはあまりにも高く数多い。
それでも行きたいと思っているのは、自分の動機が不純だからだ。

 

今回の計画には、ボランティア以外の内容も含んでいる。
行程の途中で立ち寄る、広島、関西での旧友との再会や飲み会。
初めて行く北陸でのプチ観光。
山登り気分で楽しむ、現地での野営生活。
自分の特技(登山、肉体労働、山仕事、機械いじりや電気工事、大工仕事、高齢者の見守り、バイク)を活かすことへの期待。
そんな「楽しみ」を織り込んだボランティア行は、計画をしているだけでわくわくする。

 

これはまさしく偽善者だ。
人への奉仕を装いながら、本質は自分の欲求の発散でしかない。
だが、私はそれでいいと開き直っているし、そんな楽しみがないと長続きしないとも思っている。


人は自分自身が一番大切だから、他人には僅かしか分け与えることはできない。
だが、少しが集まれば沢山になる。
そして、繋がりが生まれれば、その人は他人ではなくなる。