ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第17夜 「 先生 」(アルハンブラの思い出)・・・幸せな時間

ステレオにCDをセットし、ヘッドホーンをつけて椅子に座る。
目当ての「アルハンブラ宮殿の思い出」を頭出しすると、心を落ち着けてボタンを押した。
優しいトレモロの音が遠くから響いてくる。
それは数十年前に店の片隅で、そして彼の自宅で聴いた音色そのままだった。
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大学2年の夏、私は高級クラブでボーイのバイトをやっていた。
広島市内の繁華街の一角にある、Sという会員制のクラブだ。
室内には東郷青児の絵が何枚も掛けてあり、ロングドレスを着た数名のホステスとマスター以外にボーイが数名の静かな店だ。
バイトを始めて間もないある日、黒いスーツを着た若い男が店にやってきた。
店のみんなは、彼のことを名前ではなく「先生」と呼んだ。
彼は大きな黒いケースを持ったまま、店の奥へと入っていった。


やがて店の客も増え忙しくなりかけた頃、店内の照明がいきなり薄暗くなり拍手が起こった。
見ると壁際の小さなステージに、先ほどの「先生」がクラシックギターを抱えて椅子に座っている。
司会は無く演奏者の言葉も無いまま、いきなりギターは音楽を奏で始めた。
静かなトレモロが続く優しいメロディーは、まるでさざ波の様に店の中に広がっていく。
それまで店の中で交わされていた会話は全て止まり、全員の視線が「先生」に集まった。
私たちスタッフも手を止めて聴き入った。


当時の私は、講義の後にサークルに顔を出し、その後バイトに出るというきついスケジュールに疲れきっていた。
だがそんな私でも、優しい曲を聴いて疲れが抜けていくような気がした。


演奏はそれから数曲続き、ラテン風の激しい曲や日本の曲、そして最後は心にしみる静かな曲で終わった。
「先生」は席を立つと深々と礼をして、控え室へと消えていった。
店の中には再び会話が戻り、私もボーイの仕事が忙しくなった。
ギターの音色が流れた十数分ほどの時間は、まるで一瞬だけ現れた別世界の様だった。


その日、結局私は彼の声を一度も聞かなかった。
しかし、なぜみんなが敬意を込めて「先生」と呼ぶのかよく分かった。
その後「先生」が週に数日来る事を知ったが、私のシフトと合わず、彼の演奏を聴けるのは月に1・2度だけだった。
やがて数ヶ月して私はそのバイトを辞め、とうとう彼と話す機会は一度も無かった。
クラブでのバイトは、東郷青児の絵とギターの音色が印象に残る不思議な体験だった。

東郷青児 : アート買取ネット

       東郷青児 「バラ一輪」

翌年の初夏、私は「先生」と思わぬところで再会した。
当時私が所属していたグリークラブ男声合唱団)の定期演奏会の曲目が決まり、サークルのOBであるNさんのところへ数名で挨拶に行くこととなった。
Nさんと会ったことはないが、私たちの愛唱歌を何曲も編曲している人なので、名前だけは知っていた。
私は全くの練習不足だったので、大先輩の前で歌って叱られはしないかと、びくびくしながらの訪問だった。


奥さんと二人で暮らしておられるNさんの自宅にお邪魔し、案内されて居間に入った瞬間に驚いた。
そこにはスーツではなくラフな服装の「先生」がソファーに座っていた。
「先生」はグリーの先輩だった。


その日、私たちカルテットの合唱は惨憺たるものだったが、Nさんは叱るどころか逆に励ましてくれた。
私は冷や汗を拭いながら、以前バイト先でギター演奏を聴いて感動したことを話した。
すると同行したメンバーが「是非聴いてみたい」と言いだし、Nさんははにかみながらも横にあったギターを手に取った。


静かに流れ出した曲は、バイト先で聴いた最初の曲「アルハンブラ宮殿の思い出」だった。
彼のギターが響くと、この日もそこだけが別世界となった。
一瞬で場の風景を変えてしまう彼のギターの音色に私は魅了され、その日は久々の「先生」との対面を楽しんだ。


しばらくして、Nさんは広島での音楽活動を切り上げ、東京へ活動の拠点を移していった。

そのため、Nさんとは会えなくなった。
その後Nさんはメジャーデビューを果たし、コンサートや楽譜の出版などに活躍していたが、数年前に惜しくも亡くなった。
訃報を聞いて、私は自分の青春時代の一部が消えてしまった様な気がした。


先日、彼の演奏するCDを手に入れることが出来た。
CDが届くとすぐに私は自室に入り、ステレオのスイッチを入れた。
曲を聴きながらCDのジャケット写真を眺めた。
写真の彼は暗い背景の中で、まるで抱きしめるかの様にギターに身を寄せ目を閉じて弾いている。
私も静かに目を閉じてみた。
すると一瞬にして私は二十歳の青年に戻り、薄暗いクラブの片隅に立っていた。
少し離れたその先で「先生」はギターを弾いている。
周りにいる店のスタッフや客は、みんな幸せな顔をしている。
曲を聴いている時だけは、みんな幸せになれた。
だからみんなは彼のことを「先生」と呼んだ。

 

「先生、また会おうね。」 私は小さく呟いた。
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(追記)
長野文憲さん
数々の素敵な愛唱歌の編曲、そして心にしみるギターの演奏、ありがとうございました。
あなたのことは、そのハーモニーやギターの音色と共に、ずっと忘れません。
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