懐かしい曲を聴くと、懐かしい人を思い出す。
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新聞販売店近くの喫茶店で、私は就職して以来の出来事を話し続けた。
二人の会話が途切れた時、店内に流れているメロディーがふと耳に入った。
どこかで聴いた曲だ。
いつどこで聴いたんだろう。
何かとても懐かしい曲だ。
「ナガイさん、この曲何だったっけ?」
「お前、この曲を知らんのか。『虹の彼方に』だ」
「虹の彼方に?」
「オズの魔法使いを見てないんか?」
映画を見た記憶はない。
それなのに、このメロディーをなぜか以前から知っている気がした。
ナガイさんと会うのは一ヶ月振りだ。
3月までは彼の経営する新聞販売店に住み込んで配達をしていたが、卒業と同時に店を出て以来の再会だった。
昨日挨拶に訪れると大歓迎され、そのまま泊めてもらった。
ところが今朝は5時にたたき起こされ、「お前が配っていた区域を配ってくれ。」と、さも当然の様に言われた。
店の表には、新聞170部を積み込んだバイクがすでに用意してある。
このひと月の間に配達先も変わっているはずだし、そもそも私は配達の順路を忘れている。
出来ないと断ったが、「大丈夫、大丈夫」と外へ押し出され、しかたなく配ることになった。
だが不思議なことに、配り始めると身体が勝手に動き、ほぼ配り終えてしまった。
ただその後、「新聞が届かないぞ!」との電話が、朝から何本も鳴り響いたのは言うまでも無い。
ナガイさんはそんなことは気にもせず、私を喫茶店に連れ出した。
彼は相変わらずだ。
ナガイさんとの最初の出会いは、私が大学で入部したサークル(グリークラブ)でだった。
グリーには留年した先輩が多く、部員歴7年を筆頭に5年以上の猛者が何名もいた。
ナガイさんはその7年生と名コンビを組む6年生だった。
彼の趣味は合唱と麻雀だ。
彼に言わせると、両者には共通点が有るらしく、「多様な和音の構造と、麻雀の多面待ちの構造は似ている」というのが彼の説だった。
彼はキャンパス内を大声で発声練習しながら歩く事が多く、遠くからでも目立った。
そして酒癖が悪かった。
深酔いすると暴れ出す。
彼の狼藉を止めようとして身体にあざを作った人間や、小便を振りかけられた人間が何人もいた。
そんな彼を私は敬遠していたのだが、7年生と6年生のコンビはなぜか私の下宿によくやってきた。
練習の後なのでいつも時刻は8時を回っていたが、アルコール持参で宴会が始まったり、麻雀パイ持参の時は深夜にパイの音が下宿に響いた。
最悪なのは楽譜持参の時で、興が乗ると深夜だろうが二人で歌い始めることがあった。
だが迷惑をしながらも、なぜか憎めない不思議な人だった。
彼は工学部に入学したが自分の入院を機に医者を志し、猛勉強の末に医学部に再入学した秀才だ。
だがその後、サークル活動と麻雀にのめり込み留年を重ねていた。
彼の下宿に行ったことが一度だけある。
冬の寒い夜だった。
コンクリート作りの殺風景な部屋に彼は住んでいた。
とりとめの無い話の後、彼は突然オルガンの蓋を開け、和音を弾きながら歌い始めた。
足踏み式の古いオルガンだった。
”母がまだ若い頃、僕の手を引いて・・・”
初めて聴く曲だったが、田舎に住む母を思いだし胸が詰まった。
曲を終わっても、彼はオルガンに向いていた。
「なんていう曲なの?」
「無縁坂って言うんだ」
声が少し涙声に聞こえた。
破天荒な面だけが目立つが、彼の繊細な一面を感じた。
その数日後、彼が酒を持って私の下宿に一人でやってきた。
彼と二人だけで飲むのは初めてだった。
酒癖の悪さを知っているだけに、私は緊張して飲み始めた。
しかし、その日の彼は陽気だった。
こんなに陽気で穏やかに酒を飲む彼を見るのは初めてだった。
酒瓶が空くと、二人ともこたつに寝っ転がって天井を見ながら話をした。
二人とも良く笑った。
彼は笑いながら「神さんの、馬鹿やろー!」と天井に向かって叫んだ。
そして神への愚痴を言いながらも、自分の人生の浮き沈みを笑い飛ばした。
夜も更けた頃、彼は帰っていった。
程なくして、ナガイさんは大学を辞めた。
必要な単位が取れず、在学できなくなったらしい。
その後は新聞販売店で雇われ店長として働きながら、3度目の大学受験に挑むと聞いた。
彼との付き合いもそれっきりかと思っていたのだが、それから一年半後に私は彼の店で住み込みのアルバイトをすることとなった。
経済新聞を主に各種業界紙を5種類、計170部程を配達するのだが、一週間経っても配達先と新聞の種類を覚えられなかった。
絶望的な気持ちになった私を、ナガイさんは辛抱強く指導してくれた。
配達前の折り込み作業の時は彼といろんな話をした。
彼の武勇伝やジョークに良く笑った。
私はそこで半年暮らし、卒業と同時に店を出た。
ナガイさんとの二度目の別れだった。
そしてこの二日間ナガイさんと話をした上に新聞配達までやり、私は学生時代に戻った様な気がした。
「また来るね」と言って喫茶店で別れたが、仕事が忙しくてなかなか会えなかった。
やがて私は転職して故郷へと戻ってしまい、ナガイさんとも会うことは無くなった。
何年かして、彼が大学受験を諦め建設関係の仕事に就いたことを知った。
さらに数年後、サークル時代の先輩からナガイさんの訃報を聞いた。
自殺だった。
「虹の彼方に」を聴くと、ナガイさんを思い出す。
この曲は彼との別れの曲になってしまった。
今は、こう思う。
喫茶店でこの曲に懐かしさを感じたのは、目の前にナガイさんがいたからだと。
彼とこのような別れ方をすることを、ぼんやりとした「未来からの記憶」として感じたからだと思っている。
今となっては、彼との日々も私の若い頃も遠い昔となってしまい、もはや記憶の中にしか存在しない。
だが、歌声だけはその輝きを失わず、今も優しく響き続ける。
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「 Over the Rainbow 」
「 虹の彼方に 」
Somewhere over the rainbow way up high
あの虹の向こうには
There's a land that I heard of once in a lullaby
昔 子守歌で聞いた国がある
Somewhere over the rainbow
Skies are blue,
虹の向こうの空は青く澄み
And the dreams that you dare to dream
Really do come true.
そこではどんな夢も叶えられる
・・・中略・・・
Where troubles melt like lemon drops
空の上では 悩みは消え去り
Away above the chimney tops
レモンの滴となって
家々の屋根へ落ちていく
That's where you'll find me.
そして 私はあなたに会える
・・・後略・・・
「虹の彼方に」・・・ 1939年ミュージカル映画 『 オズの魔法使 』劇中歌
作詞:エドガー・イップ・ハーバーグ( Yip Harburg )
作曲:ハロルド・アーレン ( Harold Arlen )
邦語訳(邦誤訳):草野徹平
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(追記)
この書き込みは第4夜「虹の彼方に」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。