ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

別冊⑫(災害編)東日本大震災・・・孤独

2011年3月11日
真っ黒な津波が、田園風景を吞み込みながら進んでいく。
これまで確信していた「平和」が壊れた瞬間だった。
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4月下旬、その日の仕事は、大船渡市中心部の高台にある仮設住宅への支援物資の配達だった。
各戸の人数を確認しながら布団や毛布などの寝具を配達して回るが、台帳の人数と実際の居住人数はなかなか一致しない。
被災現場の状況は日々変化しているが、行政の人手が足りず混乱しているのも一因だろう。

 

配達すると、どの家からも「ありがとうございます」と丁寧な礼を言われる。
「今日からやっと布団で寝れる」とも言われた。
入居からすでに一週間ほどが経っている。
まだ肌寒い東北の4月、断熱も不十分な仮設住宅で、この人たちはこれまでどうやって寝ていたんだろう。

 

配達を終え発車しようとしたら、メンバーの中で一番若い20代のG君がいない。
「そう言えば、作業の途中から見なくなったなあ」と隊員の一人が言う。
携帯に電話をかけるが出ない。
彼は前日の作業で一番ダメージを受けていたし、雨にも濡れているので心配した。
しばらく待っていると、彼が息を切らして走ってきた。

「一番端の家に配達に行ったら、お爺さんの話し相手にされました」
聞けば30分ほど捕まって、お年寄りの話を聞いていたらしい。
その人は寝たきりの奥さんを介護しているそうで、いろいろと積もる思いも有るのだろう。

私たちの仕事は単に物資の配達をするだけではない。
G君はいい仕事をしたようだ。
それにしても岡山出身のG君に、お年寄りの岩手弁が良くわかったなと感心したら、
「笑顔で適当に相槌を打っていただけです。」と彼は笑った。

 

ずいぶん前、新聞で見た記事に「避難所にいた頃は会話があったが、仮設住宅に入ったら孤独になった」という被災者の言葉があった。
阪神大震災の時はこの問題が特に深刻だったらしく、今回の震災では各仮設住宅団地には集会所が設けてある。
しかしそこに行ける人ばかりではないと改めて思った。


3月に東北地方を襲った津波を見た時に「何かしたい」と思い、少ない金額だが日赤に寄付した。
さらに現地で直接的支援もしたいと思っていたところ、所属する教職員組合日教組)が全国からボランティアを募って東北3県に派遣することを知った。
阪神淡路大震災の時も同様の募集が有ったが、仕事を休んでいくことはできなかった。
だが今回は4・5月のゴールデンウィークと聞いて応募し、幸いにもメンバーに加えてもらった。


仮設住宅への配達が終わった夜、宿舎でのミーティングで、大槌町に行った他の隊員からも同じ様な報告があった。
海に近い山間の集落に有る半壊した家には、足の不自由な七十代の男性が一人で暮らしていたそうだ。
濡れて使い物にならなくなったものを隊員たちが片づける傍ら、彼は隊員の一人を捕まえて昔話に花を咲かせた。
自分が若かった頃の話、村に活気があった頃の話、世間話は延々と続いた。
やがて彼が、
「二階からタバコを取ってきてくれ」と言った。
隊員が二階から取ってきて渡そうとすると、
「あんたにやる。持って行け」と
老人は隊員のポケットに押し込んだ。
もらったその隊員はタバコを喫わないので、持ち帰ってほかの隊員にあげたそうだ。

 

その話を聞いて、タバコ喫いの別の隊員がぽつりと言った。
「その爺さんは、きっと一緒にタバコを喫う相手が欲しかったんだよ」

 

その地区の若者の8割ほどは都会に出てしまうそうで、いわゆる限界集落らしい。
そのお年寄りの息子も、都会の釜石に出たきり帰ってこないそうだ。
津波が無くとも、孤独な人は多い。

(追記)

この書き込みは「第11夜・被災地の記録①」をリライトしたもので、かなり重複した内容です。

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