ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第46夜 2011年・被災地(東北)にて②・・・ボランティアの意味

被災地へ支援に行ったつもりだったのに、私は被災者に励まされて現地を発った。
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最終日の作業はアパート室内の清掃だ。
2階建ての建物はそんなに丈夫そうには見えないが、津波に見舞われながらもしっかりと建っていた。
屋内まで浸水はしたものの、あまり傷んでいない部屋が多く、作業の大半は壁や床に付着した泥汚れを落とすことだった。
これまでの力仕事と違い、床板に傷をつけないように細心の注意が必要だ。


休憩時間に家主のYさんは、庭先にコップを並べてお茶を出してくれた。
聞けば海の近くにある実家は今回の津波で流されてしまったらしい。
江戸末期に建てられた旧家は、過去二回の津波に耐えながらも今回はダメだったと言った。


彼は津波を避けるために家を一旦出たが、自宅に財布を忘れたことに気づき取りに戻ったそうだ。
財布を持って家を出ると近くに津波が見え、脱出は間一髪のタイミングだったと明るく笑った。
だが、その後すぐに真顔に戻った。
「ここに住む人間は、全員が様々なドラマを持っています。
 ぎりぎり助かった人、惜しくも大切な人を失った人・・・」


作業終了後、Yさんから思わぬ申し出があった。
「記念写真を撮りましょう。どうせなら、瓦礫をバックにしたがいいですよね」
私達からは決して言えない言葉だ。
写真を撮った後、固く握手をして別れた。
「10年後、復興した様子を見に来て下さい」
そう言われて現地をあとにした。


そして全日程を終え無事帰着した。
久々に会う職場の同僚から多くの声をかけられた。
「どうでしたか」
「大変だったでしょう」
気にかけてもらって有難かったが、答に迷った。
なんと答えればいいんだろう。


確かに現地は大変だった。
だがそれは、私が大変だったのではなく、展望のない生活の中に置かれたままの被災者の事だ。
私自身は被災者と深く関わったわけではなく、大した作業をしたわけでもない。
当初から、現地で自分ができる事は微々たるものだろうと想像し、自分の学びこそが重要だと思っていた。
しかし、自分自身の価値観が変わったわけでもなく、ただ淡々と過ぎた一週間だった。
結局、「しっかり仕事をしてきました。」としか返せなかった。


成果がゼロではないが、出発前の大きな期待に比べてあまりにも少ない。
連合(日教組)が膨大な資金と手間をかけて支援をやるからには、それなりの成果を持ち帰ろうと欲張りすぎたのだろうか。


東北への派遣が決まった時は驚いた。
応募はしたが、きっと倍率が高くて採用されないだろうと思っていたからだ。
一方妻は、連休中に家の片づけを期待していたらしく
「こんなものだけは当たるのね・・・」
と、溜め息をついた。
出発準備のためさらに散らかった部屋の隅で、私は小さくなった、


息子は反対した。
知人のマスコミ関係者の情報では、放射能汚染は公表されている以上に深刻だという。
また、余震も頻発していた。
出発の朝、慌ただしい中に私はメモ紙に短い「遺書」を残して旅に出た。
かなりの覚悟で臨んだ派遣だった。


現地で嬉しかったのは、被災者からの「ありがとう」の言葉だった。
作業の後では、被災者の暗かった表情も、少し明るくなったように感じた。
私たちの仕事は、小さいながらも復興へのきっかけを作る事だったのかも知れないと思う。

 

私は沢山の人たちの協力によって今回の旅に参加できた。
仕事の肩代わりをしてくれた職場の仲間。
指示を守って様々な作業をやってくれた生徒達。
ボランティア活動を支援してくれた東和町の住民。
そして、わがままな行動を許してくれた家族。
それぞれが私に分け与えてくれた少しずつの支援によって、私個人は「少しの成果」をあげることができた。
「少し」を恥じることは無いと、今は思う。


「少しが集まれば、沢山になる。」
みんなで協力して、息長く続けることが大切だということを学んだ旅だった。   
(2011年5月記)
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(追記)
この5年後、思いもかけず私自身も被災者となりました。

熊本地震震度6強の揺れに見舞われ、自宅は半壊しました。
被災して初めて、ボランティアの有難さや意義を実感した気がします。
ボランティアが復興のすべてをやる必要はないと思います。
被災者に「一人きりではない」というメッセージを伝え、真っ暗闇となった未来に一筋の灯りをともすことが、重要な役目ではないかと思っています。