ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第51夜 行動する偽善者(被災地へ)・・・不真面目ボランティアの勧め

テレビ画面に映る能登の被災風景は、過去に何度も見た辛い景色だ。
倒壊した家屋、津波に打ち上げられた車、行列に並ぶ被災者・・・
それは大船渡や人吉の被災地で見た、そして熊本地震に見舞われた自分の街で体験した風景そのものだ。

石川 珠洲市 一部が孤立状態 瓦で道路に「SOS」の文字を作る | NHK | 令和6年能登半島地震

  (画像:NHKニュースより)

「一刻も早く行って、役に立ちたい」と思った。
だが、そんな思いを抱えながらも、ただニュースを見守るしかない。
年末から三が日の終わりまで、午前中は毎日仕事をしていた。
やっと仕事から解放された三日の昼、
「さあ、やっと正月だ。何をしよう」と解放感に浸った。

 

最初に浮かんだのは、「日常から離れて旅に出たい」という思いだ。
先月、中古の軽バンを買った。
後席が広く。布団が敷けるほどの広さだ。
走行距離は18万キロ近いが、車屋の言う「最近の車は30万キロくらいエンジンは大丈夫だ」という言葉に騙され買ってしまった。
(30万キロ保証が付いていると解釈していいのだろうか?)
小汚い車内をボチボチと掃除をしているところだったが、被災地のニュースを見てふと思いついた。

「被災地へ旅に出よう!」
宿泊用具と、復旧に役立ちそうな装備を積んで現地で役に立ちたい。
水や食料に困る人たちに物資を届け、人手のない集落の力仕事を手伝い、少しでも現地の役に立ちたい。
困った人たちの役に立って、感謝される自分の姿を夢想した。

 

さっそく、計画を立て始めた。
まずは現地情報の収集。
自宅から能登までは1000キロを超える距離が有る。
意外と遠いが、高速を使わなければ交通費は安く済みそうだ。

次に交通状況。
通行止めの箇所が多い。
規制線が張られて、進入が制限されているところもあるだろう。
四輪で活動できる場所は、かなり限られているようだ。

その次が、活動地域や所属先の選定。
ニュースを見て一番心を痛めるのは、山間の孤立集落の状況だ。
食料も燃料も通信手段も無く、高齢者ばかりの地域は大変だろう。
出来ればそんなところでこそ役に立ちたいが、まだ被災数日では県外向けにボランティアセンターが立ち上げられているはずもなく、どこで何をして良いかがわからない。

 

持参装備のリストアップや日程計画までは順調に進んだが、現地での活動内容と活動方法がどうしても定まらない。
ニュースの内容を見ても、私みたいな素人が今行ったら、現地の救援活動の足を引っ張ることになるかも知れない。
だが、一日も早い救援を必要としている人も多い。
どうしよう。
早ければ、5日の朝にでも出発する予定だったが、迷いが生じてすでに二晩を経過している。
現在は、情報を集めながら様子を見ている状態だ。

丸3日、何も食べとらん」 奥能登避難所へ物資届かず 本紙記者ルポ|社会|石川のニュース|北國新聞
   (画像:北國新聞

東北震災の折、労働組合からの派遣ボランティアとして、震災復興に一週間ほど出かけた。
その動機は人の役に立ちたいという純粋な気持ち以外に、旅費無料で東北に行ける、被災地の様子を見てみたいという気持ちがないまぜになった、不純なものだった。

到着初日のミーティングで、現地の役員から最初に言われた言葉に自分を恥じた。

「物見遊山で被災地に来てもらっても結構です。現地に行けば何かしたいという衝動にかられます」と言われた。
その言葉通り、被災の様子を目の当たりにした私は衝撃を受けた。

当時一緒に行ったチームメンバーの一人が掲げた合言葉は、「行動する偽善者」だった。
私たち一人一人の動機には、なにがしかの不純なものが含まれているし、そもそもボランティアは偽善でしかない。
それでも一歩踏み出す事にこそ意義が有る。
そんな様々な思いが含まれた言葉だと感じた。


今回、北陸行きを計画しているが、結局行かないかもしれない。
計画実現のためのハードルはあまりにも高く数多い。
それでも行きたいと思っているのは、自分の動機が不純だからだ。

 

今回の計画には、ボランティア以外の内容も含んでいる。
行程の途中で立ち寄る、広島、関西での旧友との再会や飲み会。
初めて行く北陸でのプチ観光。
山登り気分で楽しむ、現地での野営生活。
自分の特技(登山、肉体労働、山仕事、機械いじりや電気工事、大工仕事、高齢者の見守り、バイク)を活かすことへの期待。
そんな「楽しみ」を織り込んだボランティア行は、計画をしているだけでわくわくする。

 

これはまさしく偽善者だ。
人への奉仕を装いながら、本質は自分の欲求の発散でしかない。
だが、私はそれでいいと開き直っているし、そんな楽しみがないと長続きしないとも思っている。


人は自分自身が一番大切だから、他人には僅かしか分け与えることはできない。
だが、少しが集まれば沢山になる。
そして、繋がりが生まれれば、その人は他人ではなくなる。