ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第54夜 ラグリマ(涙)・・・ギターとバイクの思い出

二学期の終業式の日だったろうか。生徒たちも帰宅して、久々にほっとした雰囲気が職員室に流れた。
すきま風の吹き込む職員室で、私を含めた何人かの職員が、ストーブの周りでお茶を飲みながら話をしていた。
すると一人が、
「そうだKさん、ギターを弾いてよ」と言った。
Kさんはギターの達人だ。
職員室にはいつも彼のギターが置いてあり、夜遅く残業が長引いた際には、気分転換に彼が曲を弾いてくれることがあった。


Kさんは照れながらも、ギターを手に取った。
「何が聴きたい?」
『任せるよ』

彼がおもむろに弾き出した曲は、素朴な優しいメロディーだった。

私はそのメロディーに聞き覚えがあるのに気づいた。
それは早朝のテレビのテストパターンのBGMだ。
テレビでは、オルゴールの音色で何回も何回も繰り返していくが、ずっと聴いていても飽きない不思議な曲だった。

 

当時単身赴任中だった私は、毎朝ラジオを聴きながら朝食の準備をした。
たまに早くテレビをつけると、たいていは本放送前のテストパターンをやっていた。
テストパターンのBGMは知らない曲ばかりだが、素敵な曲も多かった。
だが定刻になると突然画面は日の丸の画像に変わり、演奏した曲名の紹介も無いまま本放送が始まる。
そのため、名前も知らないこの曲を聴けるのは、テストパターンの時だけだった。
やがてBGMは別なものに替わり、その曲を聴けなくなってしまった。

 

Kさんが曲を弾き終わると、私はすぐに質問した。
「この曲はなんていう名前?」
『これは****て言うんだよ。』
私は初めて曲の名前を知って嬉しかった。

これで、いつでも聴けると思った。

 


だがそれから何十年もの間、メロディーを偶然耳にする機会は有っても、私は曲を聴くことはできなかった。

Kさんに聞いた曲名を、忘れてしまったのだ。

GB250 E型 クラブマン初期型自動車/バイク - 車体 さん

Kさんはバイクも趣味だ。
彼の乗るホンダのクラブマン250は素敵なバイクだった。
私もギターとバイクは大好きだ。
だが私のギターは中学生の頃に少し練習したきりで、弾けるというレベルではない。
バイクも安物買いをしては、手入れもせず錆びるにまかせることが多かった。


Kさんも私も中型免許だったが、Kさんは限定解除試験を受け合格した。
彼の勧めで私も講習会を受けた後に試験を受け、どうにか合格した。
大型バイクに憧れていた私が早速買ったのは、4万円のポンコツのナナハンだ。
初期のCB750Fだが、900ccがベースの車体は重かった。


その頃、「校内安全運転講習会」と銘打って、学校の敷地内でバイクのミニ競技会をしたことがあった。
の字やスラロームコースのタイムトライアル、一本橋の遅乗り、軽いバイクは土手の駆け登りもやった。 
その時、みんなが持ち寄ったバイクを互いに交換して乗り比べをしたりしたが、私だけは自分のバイクを貸すことも他人のバイクに乗ることもしなかった。
「四輪は貸しても、バイクの貸し借りはしない」というのが私のポリシーだったし、Kさん以外は大型免許を持っていなかった。


そのKさんが
「ちょっと乗せてくれないか?」と言ってきた。
少し迷ったが、やはり断った。
この時の判断を、私は今も悔やんでいる。

 

Kさんがギターを弾いてくれてから数ヶ月後の春、Kさんに癌が見つかった。
遠く離れた熊本市内の大病院で手術をした。
たまたま私の自宅は熊本市近郊なので、週末の帰省の時は彼の入院する病院を訪れて見舞った。

病室での話は気詰まりなので、二人で屋上に上がっては街中の風景を眺めながら世間話をした。
病気のことは話さず、バイクの話などで会話は弾んだ。
奥さんからの預かりものを手渡し、洗濯物などを持ち帰る。
そんなこともあって、Kさんや奥さんからはすっかり頼りにされるようになった。


数ヶ月の闘病を経て、彼は職場復帰した。
やがて、元のように元気に働き始めたが、半年ほど後に癌が再発した。
そして、もう手術はできないほど進行していると聞いた。

 

彼は再度熊本市内の病院へ入院し、さらに地元の病院へと転院した。
私はたまに見舞いに訪れては、生徒たちの様子を報告したが、日に日に病状が悪化していく彼の様子を見るのは辛かった。
ベッドから立てなくなった彼に、バイクの話をすることもできなかった。
見舞いも短時間になり、いつも「また来るからね」と言っては、逃げるように病室を出た。


そんな私に
「あんたと、もっと一杯話をしとけば良かったなあ」
と、彼がしみじみ言った時があった。
多分、自分の死期を悟っての言葉だったのだろう。
その言葉を聞いて、
「人は生きている間に、どれだけ多くの人と思い出を作れたかが大切なのかも知れない」と思った。

 

闘病末期に彼を見舞った時、彼は会話も辛かったのだろう
「ごめん、今日はここまでにしてくれないか」と、初めて面会の打ち切りを求められた。
私はいつものように「また来るね」と努めて明るく言いながら病室を後にした。
これが彼との最後の会話になった。


やがて、Kさんは喋るのもやっとの状態になったらしく、新しい治療法を求めて職場から100kmほど離れた鹿児島の病院に転院したと聞いた。


転院後1・2週間が過ぎた日の夕刻、自宅の電話が鳴った。
入院先の病院から、奥さんが泣きながら電話をしてきた。
もうダメだという。
最後にもう一度だけ見舞いに来て欲しい様子だった。


夜の高速を鹿児島まで走った。
車の中では音楽を聴く気にもなれなかった。
彼との思い出が次々に浮かび、あのギター曲のメロディーが浮かんだ。
「何という曲なんだろう。もう一度聞いとけば良かった。」

 

病室に着くと、奥さんと子どもさん達がベッドの脇に立っていた。
「あなた、草野さんが見えましたよ」
Kさんは、「アー」とも「ウー」ともつかぬ返事をした。
この時、私は何を話したのか憶えていない。
多分、かける言葉が思いつかず、当たり障りの無いことしか言えなかったと思う。

 

結局私は短時間の面会後、「また来るね」と言って病室を後にした。
「草野さんが、また来るってよ。」
と、奥さんが声をかけ、Kさんの「ウー」という返事を聞いたのが彼との最後になった。


熊本の自宅に着いた時はすでに日付が変わっていた。
そして、私が病室を出てから数時間後に彼は息を引き取ったと聞いた。

 

 

40歳でKさんが亡くなってから、もう30年ほどになる。
そろそろ33回忌も近い。

 

あの曲名は何だったのだろう。
ネットで曲名が分かると聞いて、何回もスマホに鼻歌を聴かせるが、私の歌が下手なのか、いつも「一致するものが見つかりません」と出た。

一度だけ曲名が表示されたことはあったのだが、翌朝目を覚ますと曲名を忘れていた。
私も歳を取ったものだ。


その後、何度挑戦しても二度とスマホは反応しなかった。
こうなれば意地だ。
youtubeでギターの名曲を検索し、片っ端から聴いてみた。

そして先月、やっと探し出した。

 

Lagrima(ラグリマ) だった。

 

数十年ぶりに聴く優しいメロディーに、Kさんの顔が浮かんだ。
彼は昔の面影のままだ。
彼のクラブマンの排気音と、ギターの音色が思い出される。


「Kさん、今度会えたら、この曲を聴きながら一緒にツーリングをしたいね。」
そんな思いが浮かんだ。

最後に彼と面会した時、そんな話をすれば良かったと、今にして思う。 

 

www.youtube.c

(追記)

ラグリマは、スペイン語で「涙」の意味だそうです。

作曲者タレガの幼い娘が亡くなり、それを悼んで作ったと言われています。