「ダニー・ボーイ」は、戦地に行った息子の帰りを待つ、父親の気持ちを歌ったものだと聞く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「女将さん、曲名は何?」
『何とかボーイ、ボニーだったかな?』
少し酔ったかに見える女将は、はっきりとしない。
「マイボニーかな?」と部員の一人が言った。
『うーん、そんな名前だったかなあ』
「それなら歌えます」
指揮者はみんなの方に向き直り、ピッチパイプの音を鳴らした。
中学校で習った簡単な曲だ。
曲を何回も繰り返すうちに歌詞を忘れていた部員も加わり、歌は次第に盛り上がっていった。
歌が終わると女将は、
『ありがとう。お礼にお酒の追加をサービスするよ!』と上機嫌だった。
喜んだ私たちは再度マイボニーを、今度は肩を組んで歌い始めた。
そんな大賑わいの中、私は最初にメロディーを聞いた瞬間の女将の表情が気になった。
それは当惑した表情で、「この曲では無いんだけど」と言っているかのように見えた。
学生の頃、私の所属するグリークラブは、演奏会後の打ち上げで平和公園近くの店「いろは」をよく利用した。
木戸をくぐると小さい庭があり、大広間もある木造の店だ。
昔は結構格式の高い店だったのかもしれないが、私が学生の頃は建物も古びており料金も手頃だった。
いつも宴会の最初に女将が挨拶に顔を出す。
歳は六十過ぎに見えたが、もっと若かったのかもしれない。
宴会の時にはみんなでよく歌った。
合唱が始まると仲居さんたちも手を止めて聴き入り、その中に女将の姿が見えることもあった。
そしてこの日、女将のリクエストに応えて歌ったのがマイボニーだ。
それ以来、この店で宴会をするたびに私達はマイボニーを歌い、女将も私たちと一緒に肩を組んで歌った。
その後、お酒の追加サービスが出たのは言うまでもない。
「私には息子が一人いるんだけど、今はアメリカに留学している。
あんた達を見てると息子を思い出す」と、女将が言った事があった。
私はなぜ女将がマイボニーを聴きたかったのか分かった気がした。
だが、マイボニーは海で死んだ息子に向けて「帰ってこい」と呼びかける歌だ。
そして、女将は息子が何歳なのか、いつ帰ってくるのかの問いには答えてくれなかった。
「女将の息子は帰ってくるんだろうか?」
気にはなったが、その後の息子の様子を聞く機会がないままに、私は卒業してしまった。
数年前、「ダニー・ボーイ」という曲を知った。
出征した息子の帰りを待ちわびる親の気持ちを歌った歌だ。
メロディーだけは知っていたが、英語の歌詞の意味を初めて知った。
自分が死んでもなお、墓の下で息子を待ち続けるという親の思いに、思わず涙が出た。
ふと、「いろは」の女将の事を思い出した。
ひょっとしたら、あの時女将が聴きたかったのは、ダニーボーイだったかも知れないと思った。
ただ、元気なマイボニーの曲と違って、ダニー・ボーイは切ないメロディーだ。
もしあの時ダニーボーイを歌っていたら、きっと女将は泣いていただろう。
肩を組んで歌う時の女将はいつも笑顔だった。
会えない息子を思いながらも笑っていたかったのだとしたら、曲の間違いはそれで良かったのかも知れない。
先年、学生時代を過ごした広島を久々に訪れた。
大学は郊外へと移転し、私の住んでいた寮も下宿も取り壊されていた。
ふと女将のことを思い出し「いろは」を訪ねてみたくなった。
卒業後すでに四十年が経つ。
女将が生きているはずもないのだが、店のたたずまいなりと見たかった。
しかし、店のあった平和公園の南側を探してみたが、街並みはすっかりと変わっており店は見当たらなかった。
女将は息子に会えたんだろうか。
そのことだけが気になった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
(追記)
ダニー・ボーイは謎に包まれた曲です。
そのメロディーは古いアイルランド民謡だと言われながら、素人にはとても出せないような高音部が有り、誰かの作曲ではないかとも言われています。
歌詞は後年ウェザリーが付けたものですが、それはあまりにも切なく、この曲を聴くたびに涙が出ます。
今私は、幼い孫の守りに追われています。
幸せそうに寝入った孫の顔を眺めるたびに、平和な世に暮らす幸せと、この子もやがて戦に取られるのではないかという不安を感じます。
ウクライナで戦争が続く今、ウクライナとロシアそれぞれの国で、家族の帰りを待つ人達がいるでしょう。
兵士達が無事に帰る事を願っています。
----------------
「 Danny Boy 」
曲:伝アイルランド民謡
詞:フレデリック・ウェザリー
適当訳:草野徹平
(1番の歌詞は省略)
・・・・・・
But if ye come and all the flowers are dying
If I am , as dead I well may be,
You'll come and find the place where I am lying
And kneel and say an Ave there for me.
お前が帰った時 もう花は枯れ
私が死んでいたとしても
お前はきっと 私が眠る所を見つけ出し
ひざまづき 声をかけてくれるだろう
And I shall hear, though soft, your tread above me
And all my grave shall warmer, sweeter be
For you will bend and tell me that you love me
And I will sleep in peace until you come to me.
お前の足音がどんなに小さくても 私には分かる
そしてお前が墓に祈り 愛していると言ってくれたなら
私はどんなに幸せだろうか
だから私は安らかに眠ることにする
お前が帰るその日まで
-----------------
(追記2)
この書き込みは、「第6夜ダニー・ボーイ」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。