ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第19夜 青雲寮1974年①(学生運動)・・・ストレートな生き方の時代

村上春樹の小説「ノルウェーの森」で、主人公は怪しげな学生寮に住んでいる。
どこの学生寮も怪しい住人には事欠かない。
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「行くぞー!」

 『おー!!』

学生寮に入って三日目だったか、今日は入学式という朝、寮の中庭に響く大声で目が覚めた。
磨りガラス越しの窓の外には多数の人影が動いており、やがて足音高く出かけていった。
何事かと思ったが、人影が消えた後はいつもの静かな寮に戻った。


広島市の中心部にある大学キャンパスから、歩いて10分ほどの所に青雲寮はある。
寮に入って最初に驚いたのは、玄関脇ロビーのガラス一面にびっしりと貼られた、多数のビラだ。
縦長の紙に独特の書体でスローガンが書いてあり、窓を埋め尽くしていた。
多分、外からの目隠しの役目も有ったのだろう。
熊本に住んでいた私は知らなかったが、青雲寮は中○派の拠点として広島では有名らしかった。
一緒に入寮した他の一年生も、遠く離れた県の出身者が多く、私同様に寮での学生運動の様子は知らないものばかりだった。


寮は4階建てで、2階と3階の間の階段にはバリケードが設けてある。

そこには人がやっと1人通れるだけの隙間があるだけだった。
機動隊の進入を阻止するためのものらしい。
入学式当日、私達新入生が参列している入学式会場の外では、中○派のデモ隊と機動隊が衝突した。
早朝に寮で聞いた声は、そのデモの出発式だと後で知った。
翌日、警察による寮の家宅捜索が行われたが、私達は大学に出ており夕刻のテレビニュースでその様子を見ただけだった。


ビラ、バリケード、家宅捜索と、初めて体験することばかりだったが、時折やってくる活動家のオルグ(勧誘)が煩わしいことを除けば平穏な毎日だった。
オルグに来る中○派活動家のAさんは、偶然にも私と同じ熊本の出身だった。
彼が寮にやってくるのはいつも夜だ。
そろそろ寝ようかと私が洗面所で歯を磨いていると、ガラリと窓が開き、彼が窓枠を乗り越えて室内に飛び降りてくる。
彼は居ずまいを正して「今晩は」と挨拶をすると、雨傘を手にして何事もなかったかのように上の階へと消えていった。
彼はどんな天気の時も、こうもり傘を持っている。
他のセクトの攻撃から、身を守るためだと聞いた。
夜に窓から入るのも、警察や他セクトの監視から逃れるためだった。


同郷のよしみも有り、彼はよく私に話しかけてきた。
また、天皇制や自衛隊についての彼の話に多少私が興味を示したため、彼は私に熱心にオルグを行ってきた。
私は非武装中立の理想主義に憧れていた。
彼も「自衛隊は反対だ!」と言うので、興味を持って話を聞いた。
だが彼は「我々が政権を取ったら、徴兵制を敷き人民軍を組織する」と言う。
武力も辞さない革命を目指しており、私は共感できなかった。


私も含め、寮生のほとんどは活動家ではなかったが、世間が見る目は違った。
他大学の女子学生と初めて合ハイ(合同ハイキング)に行った時、自己紹介で「青雲寮に住んでます」と言うと、
「えー! 大丈夫? 怖くない?」とびっくりされた。
地元の人間からしたら、青雲寮も暴力団の組事務所も、同じくらい危険に思えるらしい。


初めて親元を離れて自由に暮らし、同級生達と語り合い楽しい毎日だった。
だが、家を出る時の親の忠告は「学生運動と、山登りだけはするな!」だった。
やがて、青雲寮の悪評は親の元にも届き、親にしつこく促された私は、渋々と近くの下宿へ引っ越した。
僅か半年だけの寮生活だった。
ただ、山登りだけは親に内緒で続けた。
探検部で洞内調査や雪山登山をしていると知ったら、多分親は腰を抜かしただろう。


寮では多くの出会いが有り、多くのことを教えてもらった。
卒業後も広島を訪れる度に、寮を訪れた。
だが、大学の移転と共に寮は閉鎖され、やがて取り壊された。
一面の砂利しかない跡地を見た時、涙が出た。

歳を取ると、失うものばかりが増えてくる。

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青雲寮の写真を、残念ながら私は持っていない。

当時カメラは持っていなかった。

上の写真は同じ男子寮の薫風寮。

青雲寮以上にボロかった。

ネット上で探すと薫風寮や女子寮の山中寮は写真が出てくるが、青雲寮の写真は手に入らない。

薫風寮の建物は、元々が「旧陸軍被服支廠」として古い歴史が有り、歴史的被爆建造物として保存が決まりそうだ。

ちょっと見てきて:広島大学薫風寮 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)