大学2年の夏、私はナイトクラブでボーイのバイトを始めた。
店は広島市の繁華街にある会員制の高級クラブで、ロングドレスを着た数名のホステスとマスター、そしてボーイが数名だけの落ち着いた雰囲気の店だった。
室内には東郷青児の絵が何枚も飾ってあったが、果たして本物かどうか、絵画に疎い私には分からなかった。
ホステスはいずれも若く綺麗な人達だったが、その中の一人は私の初恋の人に少し似ていた。
事情通の人間から聞いた話では、その人は私と同じ大学に在籍していたが、ある事情で中退したという。
バイトを始めて間もないある日、黒いスーツを着た若い男が店にやってきた。
目つきがやや鋭く、客ではない様子だ。
店のマスターは、自分より遙かに若い男を「先生」と呼んで丁寧に応対している。
そしてマスターだけでなく、店の誰もが彼のことを「先生」と呼んだ。
彼は大きな黒いケースを携えていたが、ホステスに案内されて店の奥へと静かに消えていった。
私は彼が何者なのか、そして若い彼がなぜ「先生」と呼ばれるのか不思議に思った。
だが客が増えるにつれて仕事が忙しくなり、そんな疑問もすぐに忘れてしまった。
店の客もかなり増えた頃、店内の照明がいきなり薄暗くなった。
会話が静まり、やがて小さなどよめきと共に拍手が起こった。
見ると壁際の小さなステージに、先ほどの「先生」がクラシックギターを抱えて椅子に座っている。
先ほどと違って、優しい表情に見えた。
司会は無く演奏者の言葉も無いまま、いきなりギターは音楽を奏で始めた。
静かなトレモロが続く優しいメロディーだ。
それは、まるでさざ波の様に店の中に広がっていく。
それまで店の中で交わされていた会話は全て止まり、全員の視線が「先生」に注がれている。
私たちスタッフも手を止めて聴き入った。
その場にいる全ての人間の動きも、声も、思考も止まったかのようだった。
私は柔らかなメロディーを聴きながら、今日一日の疲れが癒やされるような安らぎを感じた。
当時の私は、日中は大学の講義、夕刻からサークル活動、夕食もそこそこにバイトに出るという慌ただしい毎日に疲れていた。
そんな私でも、優しい音楽を聴いて疲れが抜けていくような気がした。
演奏はそれから数曲続き、ラテン風の激しい曲や日本の曲、そして最後は心にしみる静かな曲で終わった。
「先生」は席を立つと拍手に応えて深々と礼をし、控え室へと消えていった。
店の中には再び会話が戻り、私もボーイの仕事がまた忙しくなった。
ギターの音色が流れた十数分ほどの癒やしの時間は、まるで砂漠の中に一瞬だけ現れた蜃気楼の様だった。
結局、私は彼の声を一度も聞かず、彼がどんな人間かも分からなかった。
だが、なぜみんなが敬意を込めて「先生」と呼ぶのかだけはよく分かった。
ギターに詳しくない私にも、彼の音楽はとても心地よいものだった。
その後「先生」が週に数日来る事を知ったが、私のシフトと合わず、彼の演奏を聴けるのは月に1・2度だけだった。
彼の演奏を聴くのは大きな楽しみだったが、数ヶ月後に私はそのバイトを辞めてしまい、彼と話す機会は無いままに終わってしまった。
ナイトクラブでのバイトは、東郷青児の絵とギターの音色が印象に残る不思議な体験だった。
東郷青児 「バラ一輪」
だが翌年の初夏、私は「先生」と思わぬところで再会した。
当時私が所属していたグリークラブ(男声合唱団)の定期演奏会の曲目が決まり、サークルのOBであるNさんのところへ数名で挨拶に行くことになった。
Nさんと会ったことはないが、私たちの愛唱歌を何曲も編曲している人なので、名前だけは知っていた。
私は全くの練習不足だったので、大先輩の前で失敗して叱られはしないかと、びくびくしながらの訪問だった。
奥さんと暮らしているNさんの自宅にお邪魔し、居間に入った瞬間に私は驚いた。
そこには、スーツ姿ではなくラフな服装の「先生」がソファーに座っていた。
「先生」はグリーの先輩だった。
その日、私たち4人の合唱は惨憺たるものだったが、Nさんは叱るどころか逆に励ましてくれた。
私は冷や汗を拭いながら、以前バイト先でギター演奏を聴いて感動したことを話した。
すると同行したメンバーが「是非聴いてみたい」と言いだし、Nさんははにかみながらも横にあったギターを手に取った。
静かに流れ出した曲は、バイト先で聴いた最初の曲「アルハンブラ宮殿の思い出」だった。
彼のギターが響くと、この日もそこは一瞬で別世界となった。
彼はリクエストに応えて更に数曲弾いてくれ、その日はとても楽しい一日となった。
機会があればまたNさんの演奏を聴きたいと思っていたが、しばらくしてNさんは音楽活動の拠点を、広島から東京へ移すことになった。
そのため、Nさんと会ったのはその日が最後となってしまった。
Nさんはその後メジャーデビューを果たし、コンサートや楽譜の出版などに活躍していたが、惜しくも数年前に亡くなった。
訃報を聞いた時、私は自分の青春時代の一部が消えてしまった様な気がした。
先日になって、彼の演奏するCDをやっと手に入れることが出来た。
CDが届くと私はすぐに自室に入り、ステレオのスイッチを入れた。
聴きたい曲は、思い出の曲、「アルハンブラ宮殿の思い出」だ。
頭出しをすると、心を落ち着けてボタンを押した。
優しいトレモロの音が遠くから響いてくる。
それは数十年前に店の片隅で、そして彼の自宅で聴いた音色そのままだった。
曲を聴きながらCDのジャケット写真を眺めた。
写真の彼は暗い背景の中で、まるで抱きしめるかの様にギターに身を寄せ、目を閉じて弾いている。
私も静かに目を閉じてみた。
すると、一瞬にして私は二十歳の青年に戻り、薄暗いナイトクラブの片隅に立っていた。
少し離れたその先で、「先生」はギターを弾いている。
周りにいる店のスタッフや客は、みんな幸せな顔をしている。
私が気にしていたあのホステスさんも、微笑みを浮かべている。
そうだ、曲を聴いている時だけはみんな幸せになれたんだ。
だからみんなは彼のことを「先生」と呼んだ。
「先生、また会おうね。」
私は小さく呟いた。
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(追記)
長野文憲さん
数々の素敵な愛唱歌の編曲、そして心にしみるギターの演奏、ありがとうございました。
あなたのことは、そのハーモニーやギターの音色と共に、ずっと忘れません。
(注)この書き込みは、「第17夜『先生』」をリライトしたものです。