ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

別冊⑰(音楽編)「先生」・・・アルハンブラの思い出

大学2年の夏、私はナイトクラブでボーイのバイトを始めた。
店は広島市の繁華街にある会員制の高級クラブで、ロングドレスを着た数名のホステスとマスター、そしてボーイが数名だけの落ち着いた雰囲気の店だった。
室内には東郷青児の絵が何枚も飾ってあったが、果たして本物かどうか、絵画に疎い私には分からなかった。


ホステスはいずれも若く綺麗な人達だったが、その中の一人は私の初恋の人に少し似ていた。
事情通の人間から聞いた話では、その人は私と同じ大学に在籍していたが、ある事情で中退したという。

「夜のサイバーパンク歓楽街(東京都新宿区)」の写真

バイトを始めて間もないある日、黒いスーツを着た若い男が店にやってきた。
目つきがやや鋭く、客ではない様子だ。
店のマスターは、自分より遙かに若い男を「先生」と呼んで丁寧に応対している。
そしてマスターだけでなく、店の誰もが彼のことを「先生」と呼んだ。
彼は大きな黒いケースを携えていたが、ホステスに案内されて店の奥へと静かに消えていった。


私は彼が何者なのか、そして若い彼がなぜ「先生」と呼ばれるのか不思議に思った。
だが客が増えるにつれて仕事が忙しくなり、そんな疑問もすぐに忘れてしまった。

 

店の客もかなり増えた頃、店内の照明がいきなり薄暗くなった。
会話が静まり、やがて小さなどよめきと共に拍手が起こった。
見ると壁際の小さなステージに、先ほどの「先生」がクラシックギターを抱えて椅子に座っている。
先ほどと違って、優しい表情に見えた。

 

司会は無く演奏者の言葉も無いまま、いきなりギターは音楽を奏で始めた。
静かなトレモロが続く優しいメロディーだ。
それは、まるでさざ波の様に店の中に広がっていく。
それまで店の中で交わされていた会話は全て止まり、全員の視線が「先生」に注がれている。
私たちスタッフも手を止めて聴き入った。
その場にいる全ての人間の動きも、声も、思考も止まったかのようだった。

 

私は柔らかなメロディーを聴きながら、今日一日の疲れが癒やされるような安らぎを感じた。
当時の私は、日中は大学の講義、夕刻からサークル活動、夕食もそこそこにバイトに出るという慌ただしい毎日に疲れていた。
そんな私でも、優しい音楽を聴いて疲れが抜けていくような気がした。

 

演奏はそれから数曲続き、ラテン風の激しい曲や日本の曲、そして最後は心にしみる静かな曲で終わった。
「先生」は席を立つと拍手に応えて深々と礼をし、控え室へと消えていった。
店の中には再び会話が戻り、私もボーイの仕事がまた忙しくなった。
ギターの音色が流れた十数分ほどの癒やしの時間は、まるで砂漠の中に一瞬だけ現れた蜃気楼の様だった。

 

結局、私は彼の声を一度も聞かず、彼がどんな人間かも分からなかった。
だが、なぜみんなが敬意を込めて「先生」と呼ぶのかだけはよく分かった。
ギターに詳しくない私にも、彼の音楽はとても心地よいものだった。

 

その後「先生」が週に数日来る事を知ったが、私のシフトと合わず、彼の演奏を聴けるのは月に1・2度だけだった。
彼の演奏を聴くのは大きな楽しみだったが、数ヶ月後に私はそのバイトを辞めてしまい、彼と話す機会は無いままに終わってしまった。
ナイトクラブでのバイトは、東郷青児の絵とギターの音色が印象に残る不思議な体験だった。

東郷青児 : アート買取ネット

     東郷青児 「バラ一輪」

 

だが翌年の初夏、私は「先生」と思わぬところで再会した。
当時私が所属していたグリークラブ男声合唱団)の定期演奏会の曲目が決まり、サークルのOBであるNさんのところへ数名で挨拶に行くことになった。
Nさんと会ったことはないが、私たちの愛唱歌を何曲も編曲している人なので、名前だけは知っていた。
私は全くの練習不足だったので、大先輩の前で失敗して叱られはしないかと、びくびくしながらの訪問だった。

 

奥さんと暮らしているNさんの自宅にお邪魔し、居間に入った瞬間に私は驚いた。
そこには、スーツ姿ではなくラフな服装の「先生」がソファーに座っていた。
「先生」はグリーの先輩だった。

 

その日、私たち4人の合唱は惨憺たるものだったが、Nさんは叱るどころか逆に励ましてくれた。
私は冷や汗を拭いながら、以前バイト先でギター演奏を聴いて感動したことを話した。
すると同行したメンバーが「是非聴いてみたい」と言いだし、Nさんははにかみながらも横にあったギターを手に取った。

静かに流れ出した曲は、バイト先で聴いた最初の曲「アルハンブラ宮殿の思い出」だった。
彼のギターが響くと、この日もそこは一瞬で別世界となった。
彼はリクエストに応えて更に数曲弾いてくれ、その日はとても楽しい一日となった。

機会があればまたNさんの演奏を聴きたいと思っていたが、しばらくしてNさんは音楽活動の拠点を、広島から東京へ移すことになった。
そのため、Nさんと会ったのはその日が最後となってしまった。

 

Nさんはその後メジャーデビューを果たし、コンサートや楽譜の出版などに活躍していたが、惜しくも数年前に亡くなった。
訃報を聞いた時、私は自分の青春時代の一部が消えてしまった様な気がした。

先日になって、彼の演奏するCDをやっと手に入れることが出来た。
CDが届くと私はすぐに自室に入り、ステレオのスイッチを入れた。
聴きたい曲は、思い出の曲、「アルハンブラ宮殿の思い出」だ。
頭出しをすると、心を落ち着けてボタンを押した。
優しいトレモロの音が遠くから響いてくる。
それは数十年前に店の片隅で、そして彼の自宅で聴いた音色そのままだった。

 

曲を聴きながらCDのジャケット写真を眺めた。
写真の彼は暗い背景の中で、まるで抱きしめるかの様にギターに身を寄せ、目を閉じて弾いている。
私も静かに目を閉じてみた。

 

すると、一瞬にして私は二十歳の青年に戻り、薄暗いナイトクラブの片隅に立っていた。
少し離れたその先で、「先生」はギターを弾いている。
周りにいる店のスタッフや客は、みんな幸せな顔をしている。
私が気にしていたあのホステスさんも、微笑みを浮かべている。

 

そうだ、曲を聴いている時だけはみんな幸せになれたんだ。
だからみんなは彼のことを「先生」と呼んだ。

 

「先生、また会おうね。」 
私は小さく呟いた。

 

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(追記)
長野文憲さん
数々の素敵な愛唱歌の編曲、そして心にしみるギターの演奏、ありがとうございました。
あなたのことは、そのハーモニーやギターの音色と共に、ずっと忘れません。

youtu.be

(注)この書き込みは、「第17夜『先生』」をリライトしたものです。

第50夜 さようならSL

今日、18年ぶりに会った。
そして、これが故郷で見る最後の姿となった。
ホームを出発する汽車は、細く長く汽笛を鳴らして出て行った。
まるで泣いているかのようだ。
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高校時代、毎朝「一番汽車」で通った。
当時すでに蒸気機関車(SL)は珍しい存在だったが、一番汽車だけはSLだった。


阿蘇から来る列車と、北阿蘇から来る列車が立野駅で連結され、二重連の姿でやってくる。
ホームにやってくるその姿は勇ましい。
けたたましく汽笛を鳴らし、煙と蒸気を吐きながら、はらわたを揺さぶるような地響き・轟音と共にやってきた。
鉄の重量と石炭の熱と、大地をも揺るがす力強さが大好きだった。

 

冬場は客車の屋根に阿蘇の雪を積んでやってきた。
夏は開けた窓から煙が入ってきた。
木材が多く使われた古い客車は、窓も狭く暗かった。
車内はがらんとしていたが、私はいつも最後尾の客車に乗った。
長く何両も連結され、最後尾の客車は出発の時には大きく揺れた。

 

客車のドアは手動開閉式で、いつでも開ける事ができた。
列車の走行中に、よく最後尾のドアを開けた。
狭いデッキに立つと、流れ去る景色の中央には、まっすぐに伸びるレールだけが見える。
その景色が好きだった。
時折ノートを小さくちぎって紙吹雪にして撒いた。
紙切れ達は、まるで桜吹雪か花火のように線路の上を舞った。

 

高校時代は受験勉強もあり、鬱屈した日々だった。
だが、汽車の中だけは不思議と落ち着けた。
通学の時は参考書も読まず、好きな小説を読んだ。
3年間の通学のあの時間は、私が私を取り戻す大切な時間だったのだと思う。

 

やがてSL達は引退したが、私は乗り納めにも見送りにも行かなかった。
十年数後、汽車の一台が「あそboy」と名付けられ、週末に観光客を乗せて阿蘇へ走ることとなった。
私は懐かしさから駅まで見に行ったが、大きく落胆した。
阿蘇の原野をアメリカの西部に見立て、客車はアメリカの西部開拓時代のイメージに飾り立てられていた。

私は汽車が可哀想に思えた。
それは似合わない衣装を着て芸をさせられている様な、惨めな姿に思えた。
何年もの間阿蘇へ向けて走っていたが、一度も乗っていない。

 

同じ汽車は、その後何年か人吉を走り、今は熊本と鳥栖の間を走っている。
来年3月には引退するので、今日が阿蘇への最後の旅だと聞き、ホームまで会いに行った。
嬉しいことに、久々に見た客車は昔風のデザインだった。
人生の最後にやっと本来の姿で過ごせて、汽車が喜んでいるような気がする。

 

出発の時に聞いた汽笛は、昔の力強い汽笛では無く優しい音色だった。
別れを惜しむかのようなその声を聞き、思わず涙が出た。

 

また一つ、自分に繋がるものが消えていく。

 

別冊⑯(家族編)父のくれた手袋

父は数年前に亡くなった。
酒好きだった父のために仏壇に酒を供え、父といろんな話をする。

生前、父と私は会話の少ない親子だった。

亡くなってからの方が、会話が増えたかも知れない。
今、とても父に会いたい。

・・・・・・・・・・・・・

「寒うなかか?」
運転席の父が、バタバタと響く排気音に負けないくらいの大声で叫んだ。
「寒うなか」と答えたが、5歳の私は半分べそをかいていた。
父の運転するオート三輪は砂利の積み下ろしに手間取り、帰りが予定より遅くなっていた。
陽が沈んだ冬の山道は急に寒さを増し、ドアガラスも無い運転席には冷たい風が吹き込んでくる。
激しい振動で助手席に座った私の体は上下に弾み、金属の手すりに必死でしがみついていたが、その手も冷え切って次第に感覚が無くなりつつあった。


やっと山を下りきった時、あたりはすでに真っ暗だった。
私は早く家に帰りたかったが、父は通り沿いの食堂の前に車を停め、「入るぞ」と先に入ってしまった。
私は仕方なくついていった。

ガラス戸の中は、暖かで活気に溢れていた。
父は焼酎を頼み、私にもおでんを取ってくれた。
外食など経験した事がない私は、おそるおそる箸をつけた。
温かい料理を口に含むと、冷え切った体が融けていくのを感じた。


ひと心地つくと、再び父の運転で帰路についた。
当時は車も少なく、飲酒運転の基準も非常に緩やかな時代だった。
途中で父が急に車を停めた。
小さな雑貨屋に入っていくと、やがて何かを手にして店から出てきた。
「はめろ」と私に投げてよこしたのは、子供用の手袋だった。
私はびっくりした。
それまで、盆・正月以外にものを買ってもらった事などなかった。
毛糸の手袋は少し大きかったが、とても暖かった。


家では、帰りの遅い私たちを母と祖母が心配して待っていた。
私は祖母に駆け寄ると今日一日の出来事を一心に話し、父からもらった手袋を見せた。
祖母は「良かったねえ。」と微笑んだ。


その日は、父との初めてのドライブだった。
兼業農家の父はいつも忙しく、子どもの相手はしてくれない。
父は無口だが怒ると怖かったので、私は何となく距離を置いていた。
そんな父が「一緒にトラックに乗るか?」と言ってきたのは、たまには子どもを喜ばせようと考えたのだろう。

だが冬空に寒い思いをさせてしまい、手袋は私に対しての精一杯の詫びだったのかも知れない。

 

その夜、私は大切な手袋を持って布団に入った。
鼻に押し当てると、毛糸の優しい香りがした。

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(注)

この書き込みは「第16夜 手袋」をリライトしたものです。

 

別冊⑮(青春編)ヒーローへの憧れ・・・永遠の少年、両津勘吉

鉄人28号 漫画

鉄人28号、鉄腕アトムエイトマン、ビッグX、サイボーグ009・・・
小学生の頃、私はアニメや漫画に夢中だった。
当時はキング、サンデー、マガジンなどの漫画週刊誌が相次いで創刊された頃で、定価60円位だったろうか。
菓子パンが30円くらいの時代に60円は大金だ。
漫画本を何冊も買うことはできなかった。
だが、学校の近くに貸本屋があってよく利用した。
民家の縁側に漫画が沢山置いてあり、おばちゃんが子供相手に小さな貸本屋をしていた。
半年や1年前の古本だと、5円や10円で借りることが出来た。
私は表紙がぼろぼろの古本を、まとめて借りては一心に読んだ


中学・高校時代は小説をよく読んだ。
欧米の古典も読んだが、それ以上にアメリカのSF作品を読んだ。
時空間を超えたストーリーの展開に夢中になり、風呂やトイレの中でも本を読んで家族のひんしゅくを買った。
SFに惹かれたのは、漫画の影響も大きかったと思う。


だが大学に入ると、一転して本を読まなくなった。
受験勉強から解放され、やりたいことが山のように有った。
読書による間接体験では無く、様々なことを実際に試してみたかった。
いくつものサークルを掛け持ちし、アルバイトにも励んだ。


交友の範囲が広がり、友人も増えた。
私の下宿は大学の目の前だったので、よく友人達がやってきた。
だが残念ながら男友達ばかりだった。
男ばかりの付き合いは、下宿で議論をしたり、麻雀をしたりする事が多かった。
徹夜で麻雀した後はそのまま雑魚寝をし、昼頃になって目が覚めた人間から帰って行った。


そんなこともあって私の下宿は、いろんな人間がいつでも立ち寄れる小汚い「サロン」と化していった。
留守中の来訪者のために連絡帳が部屋の中央にあり、夕刻私が帰ってくると幾つも伝言が書き込んである。
時には私が帰宅すると、誰かがコタツで寝ていることもあった。
部屋は散らかり放題で畳は見えなかったが、そんな生活に私は妙に満足していた。


そんな頃、少年ジャンプで「こち亀」(こちら亀有公園前派出所)が始まった。
主人公の両津勘吉は、下品でだらしなく計画性が無い、仕事はさぼる、金のためなら友人をも裏切る。
そんな彼が人をだまして一儲けしようとするが、あまりの強欲さ故にいつも失敗してしまう。
そんな展開にいつも腹を抱えて笑った。
笑いながらも、奇妙な親近感を抱いた。


ある時、同じゼミの友人から「おまえは両津そっくりだな」といかにも感心するかのように言われた。

そう言われて私は嬉しかった。
両さんはヒーローだ。
超人的な体力を持ち、あらゆる遊びに長け、金儲けのためなら驚異的な能力を発揮する。
自分の都合しか考えず、他者の迷惑など顧みもしない。
彼の生き様の明快さが羨ましかった。

また彼は決して人を傷つけない。
粗野な言動や裏切りで多少周囲を困らせても、最後はその何倍もの報いを受けるので彼の罪は許されてしまう。
助平だが女性と恋仲になることは無く、傷つけもしない。
強者には強く、弱者には優しい。
彼の根底には、少年の純情さが感じられた。


だが、友人の発言の真意は別のところにあったらしい。
当時の私は四年生に進級したものの、卒業研究を後回しにしてサークル活動やアルバイトに精を出していた。
そのため、他の学生が研究室で研究をしている時も、私だけ不在のことがよくあった。


両さんもよく職場を抜け出して遊んでいることが多い。
そして彼には、天敵である上司「大原部長」がいた。
職場にやってくる部長の口癖は「両津はどこへ行った?」である。
実は私にも、天敵とも言うべき存在「ゼミの指導教官M先生」がいた。
研究室に来る彼の口癖も「草野はどこへ行った?」だったらしい。


こち亀」もついに40年の連載を終え、私の学生生活も遠い昔となってしまった。
今、学生時代がたまらなく懐かしい。
自分の欲しいものをひたすら追いかけて、傷ついた日々。
あの4年間の私は、あまりにも幼く不器用な少年だった。

学生時代が懐かしくなると、当時下宿で使っていた連絡帳を読むことがある。
そこには、たくさんの両津勘吉達が今も少年の日々を過ごしている。

(追記)
M先生は当時大学院を出たばかりで、私達と数年しか歳が違わない。
意欲に燃えて学生の指導にあたられていたのに、私はとんでもない学生だった。
数年前に広島を訪れて友人達と酒を飲んだ際、懐かしくなってM先生に電話をした。
先生は夜遅い時刻だったのに、わざわざ宴席に出向いて頂き、昔話に話が弾んだ。
卒業してもなお、ご迷惑をおかけしている。

道本先生、「天敵」扱いをして申し訳ありません。 m(__)m
当時は本当にお世話になりました。
意欲も能力も無い私を見捨てずに指導していただいた先生の姿は、私の教員生活における道しるべとなりました。

(注)
この書き込みは「第8夜 永遠の少年「両さん」」をリライトしたものです。

別冊⑭(平和運動編)平和をどう作るか・・・知覧にて

特攻平和会館の展示物は、戦争の悲惨さを語るのか、それとも悲劇の英雄たちを称賛するのか、それを確かめたくて10年ぶりに知覧を訪れた。

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「軍備増強を!」 「敵基地への先制攻撃を!」
ウクライナ侵攻以降、勇ましい声が飛び交う今の日本に危機を感じ、南九州市の平和スピーチコンテストに応募することにした。

その原稿の材料を集めるため、2022年の4月に南九州市知覧町の特攻平和会館を訪れた。


平和会館への訪問は27年間で4回目となる。
最初の訪問では、特攻兵や家族の思いに泣いた。
だが2回目、3回目の時は疑問を感じる展示が増えていることに気づいた。
展示の内容は本当に「偏向」しつつあるのだろうか。


今回の訪問では、図書コーナーにおかしな本は見当たらず少しほっとした。
だが、熊本から離陸した特殊工作部隊「義烈空挺隊」による沖縄米軍基地攻撃の絵はまだ展示してあった。


絵に描かれた日本兵達の姿は勇ましい。
勇敢にも敵基地に着陸し、機銃を放ち、拳銃や抜き身の日本刀を手にしている。
上空には日本の爆撃機が飛び交い、敵基地には炎が上がる。
それは兵士の武勇を称える絵で、決して鎮魂の絵ではない。
そしてこの絵だけで無く、この部屋の展示物は展示の意味に疑問を感じるものが、いくつもあるように思う。


戦闘機疾風は以前の訪問の時は模型だったが、実物に代わっていた。
その機体は1億円以上すると聞く。
疾風は詳しい性能を説明して部屋の中央に展示してあり、高性能な兵器の精悍さは見る者の心に強さへの憧れを呼び覚ます。


他国の話だが、アメリカの国立航空宇宙博物館には、広島に原爆を投下した爆撃機エノラゲイ」が展示してある。
その展示の目的は被爆者への鎮魂ではない。
敵国日本を打ち負かした素晴らしい兵器として、誇らしげに展示してある。
そして、平和会館の戦闘機「疾風」や「隼」の実物も、それと同じメッセージを発しているように思う。


義烈空挺隊の絵について、気になったことがもう一つある。
絵にかかるタイトルには本来の名称である「義烈空挺隊」ではなく、「義烈特別攻撃隊」と書いてあった。
いわゆる「特攻隊」として紹介されている。
爆弾を抱いて敵艦に突入する特攻隊と違い、義烈空挺隊は現地で破壊工作を継続することを目的としている。
熊本の健軍基地から5月に出撃した際の作戦も、無謀な作戦ではあったが死ぬ事は命じられていない。
そういう意味では、「特攻隊」と名付けるのは少し違うような気がする。
この絵を展示した人が「特攻隊」の名をあえて冠したとすれば、「この隊だけ特攻隊扱いしないのは可哀想だ」という「配慮」が有るのかも知れない。
特攻という行為を神聖視する価値観を持っているのかも知れないと思った。


鹿児島県の曾於市に、「芙蓉部隊」の資料を収集している「芙蓉会」が有る。
芙蓉部隊とは、沖縄への特攻作戦が決まった作戦会議の席で特攻に反対した、美濃部少佐によって編成された攻撃部隊だ。
美濃部少佐は特攻作戦に異議を唱え、夜間攻撃による通常作戦を実施した。


「全飛行機特攻」の上層部方針に反対し、自分の主張を堂々と行った彼の生き方に感銘した人たちにより、戦後になって芙蓉会が作られた。
だが、会が部隊の資料を集めようとした時、部隊の生存者達から証言を集めるのに苦労したと聞く。
その原因の一つが「特攻をしなかった芙蓉部隊」に所属していたことを、元隊員達が「恥じた」ためだという。
私たちの意識の中に、特攻を美化する考えが溢れているのかも知れない。
そして、特攻平和会館の展示品の中にも、特攻を称えるものが幾つもあると感じる。


私が入館した時、修学旅行生らしい団体と一緒になった。
コロナが多少落ち着き、修学旅行も実施されるようになったようだ。
神妙な顔で遺書を読む生徒、屈託のない笑顔で友人たちと会話しながら歩く生徒、精悍な戦闘機に見入る生徒。
未来を作る彼らの眼に、先人達の生き様はどのように映ったのだろうか。
(2022年4月記)

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(追記)・・・2022年6月
十数年ぶりに平和スピーチコンテストに応募しました。
以前、千通を超える応募のあった時代と違い、昨年は70通ほどの応募だったと聞き、「ひょっとしたら入選するかも」と、期待を込めての応募でした。
しかし、見事に一次審査で落選しました。
想像以上に手強いようです。

当初は、思う存分に会館の展示を批判しようと思って書き始めたのですが、全く面白くない原稿ができあがってしまいました。
聴衆が聞いて納得できる内容にしようと思って書き変えたのですが、審査委員の心は動かせなかったようです。

「平和をどう訴えるか」
私にとって、大きな課題です。

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(注)この書き込みは「第27夜・知覧特攻平和会館②」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。

別冊⑬(平和運動編)知覧特攻平和会館での疑問・・・英霊達の憂い

あんまり緑が美しい。
今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ。
真青な空 ぽかんと浮かぶ白い雲 
6月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。

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先の文章は、22歳で特攻に飛び立った兵士が残した文章だ。
初めて知覧特攻平和会館を訪れた私は、幾度も涙を拭った。
そこには、愛するものを残して死んでいく苦悩と、残されたもの達の悲しみが溢れていた。
私は自分の幼い子どもや老いた父母の姿を想い重ねながら、「決して戦争をしてはいけない」と誓った。


知覧は3回訪れた。
二度目はそれから7年ほど後だ。
平和教育の研修として訪れ、その時も展示内容に感動した。
だが、前回と違い妙な違和感を覚えた。


戦闘機の大型の模型がいくつも増えていた。
いずれも実機かと思うほどに大きく、ピカピカで格好良い。
飛行機や戦艦が大好きな私は一心に見入った。
だが先程まで涙を流していた私と、兵器に憧れる私の両者が自分の中で葛藤し始めた。
そして、「この格好いい戦闘機は、何のために展示されているんだろう?」と考え始めた。


別の展示室でも、壁にかかる大きな絵が目を惹いた。
そこには、鉢巻き姿の日本兵が勇ましく戦う様子が描いてあった。
敵基地に着陸した機内から機関銃を撃つもの、地上に降りて拳銃を構えるもの、抜き身の軍刀を構えたもの、そして上空には複数の日本の爆撃機が描いてある。
その絵は、戦争末期に沖縄の米軍基地を攻撃するために出撃した「義烈空挺隊」を描いたものらしい。
熊本の健軍飛行場から出撃したそうだ。
私は熊本に住みながら、そんな史実を知らなかった。
しかし制空権もない当時、こんなにも多数の飛行機が敵基地へたどり着いたのだろうか。
そもそも、この作者は何を伝えたいのだろうか。
絵からは、死にゆく者の悲哀ではなく、突撃する兵士の勇ましさしか感じなかった。


とどめは売店での買い物だ。
平和教育の資料にしようと、書籍コーナーで本を何冊か購入した。
その中に、日本に占領された台湾に関する本があった。
著者は台湾人なので、てっきり占領当時の苦労を書いたものとばかり思って買ったが、その内容は日本の占領を賛美するものだった。
「日本が占領したから台湾は発展した」との内容で、占領の負の面は書かれていない。
こんな本が置かれていることに驚いた。

特攻隊員が死に向き合う姿に涙した私だったが、平和会館を出る時には、展示品の陰に見え隠れする得体の知れないものに不安を感じていた。

 

ただ、その後に同じ知覧町内の富屋食堂(ホタル館)を訪問して少し救われた。
多くの特攻隊員が通ったこの食堂の女主人は、隊員たちから母のように慕われ、出撃前には隊員達が別れの挨拶に立ち寄ったと聞く。
「民営平和会館」とも言うべきこの施設の方が、特攻兵の等身大の姿を伝えているように思えた。
知覧を訪れて感じたのは、平和をどう作っていくかの難しさだった。


二回目の訪問から数年後、南九州市(旧知覧町)主催の「平和スピーチコンテスト」が毎年開催されている事を知った。
一般の部の最高賞金は何と30万円。
私は俄然意欲が沸き、一気に原稿を書き上げた。
だが出来上がった文章を読み直すと、平和会館の展示に対しての批判的な箇所がいくつも有った。
私は悩んだ。
書いたことは私の正直な感想だが、主催者を批判するような文章では入賞は難しいだろう。
結局私は賞金の魅力に負け、会館への批判の文章を半分に削り、残りの文章も曖昧な表現に止めた。
かくして原稿は何とも中途半端なものとなってしまった。

 
応募してひと月ほど経った頃、思いもかけず一次予選通過の通知が来た。
二次審査は録音テープによる朗読の審査で、それに通過した4名がスピーチコンテスト本番へと進む。
二次審査を通過すれば、最低でも10万円、うまくいけば30万円の賞金が手に入る。
教師として普段から喋り慣れている私は、スピーチに絶対の自信を持っていた。
私はスピーチの録音に取りかかると同時に、妻には内緒で大型の液晶テレビ電気屋に注文した。


出来上がったテープを発送して間もなく、待ちに待った二次審査の結果が送られてきた。
だが、結果は予選落ち・・・
5位~8位の入選者として、小さな盾が同封してあった。
無論、賞金は一円も無い。
私は落選が信じられなかった。
「なぜ、落ちたのだろう。展示の批判をしたことがやはりダメだったのだろうか?」
幾ら問いかけても答えは見つからなかった。


先日、久々に特攻平和会館のホームページを見た。
若い来館者の感想の一部が掲示してあり、その文章を読んで気が重くなった。
「両親への孝行・・、国を信じて死んでいった男らしい姿・・、今の若者は自分中心の人生を送っている・・」等々と書かれている。

「二度と悲惨な戦争を起こしてはいけない」という結論の部分は私と同じなのだが、そこに並んだ言葉に、何か危ういものを感じた。


今、ウクライナの状況を巡って、反戦・平和という言葉が盛んに飛びかっている。
だが皮肉にも、戦端を切ったプーチン大統領ですら「ロシアとウクライナ人民の平和を守るための、正義の戦い」と言っている。
日本でも、「敵がミサイルを発射する前に敵基地を攻撃をしなければ、日本は守れない」「日本も核武装をすべきだ」といった発言があちこちで出るようになった。
このような状況を見て、知覧の英霊たちは何を思うだろう。


私は平和のために自分に何ができるかを改めて考え、一つの決心をした。
近年スピーチコンテストの賞金額は大きく減り、昨年の一般の部の応募者は70名程度に激減している。
だが私は、もう一度コンテストに応募してみようと思っている。
今度は賞金は要らない。                     

  (2022年3月記)

(注)これは「第26夜・知覧特攻平和会館①」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。

第49夜 花の下にて春死なん(理想の死に方を求めて)

五木の子守歌の後半の歌詞は、野垂れ死にの歌だ。
それは私の望む死に方でもある。
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おどんが うっちんねえば 道ばちゃ いけろ
通る人ごち 花あぎゅい
 (私が死んだら 道端に埋めろ)
 (通る人ごとに 花を供えるだろう)

 

親父はこの歌が好きだった。
村の夏祭りでは、「正調五木の子守歌」と前置きして、あまり聴かないメロディーで歌ってた。
そんな父を私は在宅で看取らずに、病室で死なせたことを悔いている。
それは、子守歌同様の野垂れ死にと言えなくも無い。

 

闘病末期、父の細った腕にも足にも、もはや点滴の針はなかなか入らなかった。
医者に「どうしますか?」と尋ねられた。
「帰って、家族に相談します」と私は言ったが、すぐに訂正した。
「もう、点滴は結構です」

 

死に直結する点滴中止の辛い判断を、あえて家族に求める必要は無いと思った。
私一
人で、父の死を決めた。
そのこと自体は仕方の無いことと思っている。

後悔するのは、点滴中止と同時に家に連れ帰らなかった事だ。
更に言えば、もっと早い段階で家に連れ帰れば良かったと思う。
ホスピスなど別な選択もあっただろう。
だが、最後まで「治る、治せる」と思っていた。
自宅に連れ帰れば、高齢の母にも家族にも負担をかけるし、私自身も毎日過労死基準超えの残業で看病はできなかった。
こうして父を送った。

 

そして、やがて私の番がやってくる。
どうやって死のう。
看病で子どもに迷惑をかけたくはない。
チューブとケーブルをつながれて、何日も寝たままなのも嫌だ。
しかも看護師が時々、拷問にも等しい痰の吸引にやってくる。
病院は辛そうだ。

 

「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
それが理想なのだが、現実には無理だ。
幾つか条件を外すしか無い。

春と2月と満月にはこだわらない。
花は何か咲いてるだろう。
結局残るのは、点滴に縛られず一人で死ぬこと。
野垂れ死にだ。


悪い死に方では無い。
どうせ人は一人裸で生まれ、裸で死んでいくんだ。
しかも病院と違い、酒を飲みながらというオプションも選べる。
私が回復の見込みの無い病気で入院したら、こっそり病院を抜け出して、酒瓶片手に旅に出たい。
自然の美しい場所を見つけ、風景を眺めながら息を引き取りたい。

 

数日前からコロナになった。
初めての感染だったが、ワクチンを打っていたおかげか、2-3日苦しんだだけでもう回復した。
5日目になるが、家庭内感染防止のため、まだ自室軟禁生活を送っている。
症状も多少辛かったが、夏場に風呂に入れないのが一番辛い。

まてよ、野垂れ死にする時に風呂は入れるのかな・・・
それに雨や雪が降っていたら嫌だ。

でも夏は暑そうだなあ。
やっぱり春か秋の天気のいい日に・・・

 

結構条件は限られてくる。
うーん・・・

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(追記)
上記ビデオに出てくる、昔のつましい生活風景を見てると、懐かしく幸せな気持ちになる。
昔の自分や家族と同じだと思うからだ。
それは単に昔だから、貧しいからというのでは無い。
昔の自分や家族が、貧しいながらも必死に助け合いながら生きていたからだと思う。
その必死さが、切なく愛おしく思い出される。