ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第48夜 被爆の日に②・その後の少年達

 (ジョー・オダネル氏撮影)

少年は涙を見せなかった。
彼は泣かないほど、強かったのだろうか。
それとも泣けないほど、多くのものを抱えていたのだろうか。

 

いろんな事を想像する。
「家」に戻れば瀕死の家族がいて、泣いてる余裕もなく看病をしなければならないのかも知れない。
それとも、悲しすぎて泣くこともできなかったのかも知れない。
どちらにしても、泣かなかった彼を心配する。.


ただ涙の有無は別にしても、彼の毅然とした態度は昨日今日身につけたものでは無い。
きっと、その様に教育されたのだろう。
彼は戦前の教育の「完成形」なのかも知れない。.
改めて、教育の重要さを感じる。


最近あまり聞かない言葉に「スパルタ教育」というものがある。
古代のスパルタ国では、病身でひ弱な子供は山の淵に投げ捨てられ、強い子だけを育てた。
私が教員になりたての頃は、そんな風に「厳しく」育てるべきだと言う声が今より大きかった。
一方、スパルタの対極にあったのはアテネの教育だ。
自由で芸術や弁論を重んじた。


私はスパルタの教育は間違いだと思っているし、世の大半の人もそうだろう。
しかしスパルタほど極端では無くとも、国民を強い兵士に育てるべきだとの声は根強くある。
そして世界には様々な考えの国がある。


家庭における子どもの育て方に、正解も間違いも無いと誰かが言った。
国の教育も同じかも知れない。

厳しく育てれば強い子ができあがり、優しく育てれば優しい子ができる。


私達が子どもを育てるやり方は、「どんな世の中を作るか」によって決まる。
国の形は様々に有るだろうが、私は最愛の弟を亡くした時に、泣ける子どもに育てたいと思うし、そのような世の中で有って欲しいと思う。
そんな国の形を決めるのは、私達1人1人だ。

 

 

二人の子どもがその後生きながらえたらしいと最近知った。

嬉しかった。

以下に、その後の少年達の様子を記す。

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www3.nhk.or.jp

 

newsdig.tbs.co.jp

(追記)

6日、松井広島市長は「核抑止の論理は破綻した」と述べ、平和構築のための新しい枠組みを作ることを求めた。

一方、岸田首相のスピーチは中身が無かった。

 

第47夜 被爆の日に①・戦場の子ども達

                     (山端庸介氏撮影)

何歳だろう。
3,4歳くらいだろうか?
顔中に傷を作り、防空ずきんの下には包帯のようなものも見える。
大切なおにぎりを手に、無表情にカメラを見つめている。
この幼い目は、被爆の地でどんな景色を見てきたのだろう。

 

80年代、被爆記録映画を作るための「10フィート運動」が日本で展開された際、私もキャンペーン映画の上映に協力した。
運動のパンフレットの表紙に、この子の写真があった。
被爆地長崎で撮影されたものらしい。
「決して子ども達を戦争に遭わせてはいけない」と思った。

 

それから20年ほどして、また辛い写真に出会った。
「焼き場の少年」と題された写真だ、
アメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネルによって長崎で撮影された。

関連する画像の詳細をご覧ください。Ise-HakuSun-Do ・ The Secret Essence of Japan ・: The boy standing by the ...

以下にオダネルの書いた文章を一部紹介する。
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焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着て裸足だった。

少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。
その子はまるで眠っているようで
見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。

係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。

まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。

気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。

私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。
一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。

軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないままただもう一度シャッターを切った。

急に彼は回れ右をすると
背筋をぴんと張りまっすぐ前を見て歩み去った。

一度もうしろを振り向かないまま。
(後略)
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なかなか争いは無くならない。
アフガン・シリア・ミャンマーと続き、それぞれが解決しないままにウクライナへと続いている。

そして今、世界の兵器産業は好景気に沸き、ネット上にはウクライナ軍が多数のロシア兵を殺したと喜ぶニュースが溢れている。
幾度もの大戦を経ながら、人は何を学んだのだろう。

そして私は何をしてきたのだろう。

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第46夜 2011年・被災地(東北)にて②・・・ボランティアの意味

被災地へ支援に行ったつもりだったのに、私は被災者に励まされて現地を発った。
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最終日の作業はアパート室内の清掃だ。
2階建ての建物はそんなに丈夫そうには見えないが、津波に見舞われながらもしっかりと建っていた。
屋内まで浸水はしたものの、あまり傷んでいない部屋が多く、作業の大半は壁や床に付着した泥汚れを落とすことだった。
これまでの力仕事と違い、床板に傷をつけないように細心の注意が必要だ。


休憩時間に家主のYさんは、庭先にコップを並べてお茶を出してくれた。
聞けば海の近くにある実家は今回の津波で流されてしまったらしい。
江戸末期に建てられた旧家は、過去二回の津波に耐えながらも今回はダメだったと言った。


彼は津波を避けるために家を一旦出たが、自宅に財布を忘れたことに気づき取りに戻ったそうだ。
財布を持って家を出ると近くに津波が見え、脱出は間一髪のタイミングだったと明るく笑った。
だが、その後すぐに真顔に戻った。
「ここに住む人間は、全員が様々なドラマを持っています。
 ぎりぎり助かった人、惜しくも大切な人を失った人・・・」


作業終了後、Yさんから思わぬ申し出があった。
「記念写真を撮りましょう。どうせなら、瓦礫をバックにしたがいいですよね」
私達からは決して言えない言葉だ。
写真を撮った後、固く握手をして別れた。
「10年後、復興した様子を見に来て下さい」
そう言われて現地をあとにした。


そして全日程を終え無事帰着した。
久々に会う職場の同僚から多くの声をかけられた。
「どうでしたか」
「大変だったでしょう」
気にかけてもらって有難かったが、答に迷った。
なんと答えればいいんだろう。


確かに現地は大変だった。
だがそれは、私が大変だったのではなく、展望のない生活の中に置かれたままの被災者の事だ。
私自身は被災者と深く関わったわけではなく、大した作業をしたわけでもない。
当初から、現地で自分ができる事は微々たるものだろうと想像し、自分の学びこそが重要だと思っていた。
しかし、自分自身の価値観が変わったわけでもなく、ただ淡々と過ぎた一週間だった。
結局、「しっかり仕事をしてきました。」としか返せなかった。


成果がゼロではないが、出発前の大きな期待に比べてあまりにも少ない。
連合(日教組)が膨大な資金と手間をかけて支援をやるからには、それなりの成果を持ち帰ろうと欲張りすぎたのだろうか。


東北への派遣が決まった時は驚いた。
応募はしたが、きっと倍率が高くて採用されないだろうと思っていたからだ。
一方妻は、連休中に家の片づけを期待していたらしく
「こんなものだけは当たるのね・・・」
と、溜め息をついた。
出発準備のためさらに散らかった部屋の隅で、私は小さくなった、


息子は反対した。
知人のマスコミ関係者の情報では、放射能汚染は公表されている以上に深刻だという。
また、余震も頻発していた。
出発の朝、慌ただしい中に私はメモ紙に短い「遺書」を残して旅に出た。
かなりの覚悟で臨んだ派遣だった。


現地で嬉しかったのは、被災者からの「ありがとう」の言葉だった。
作業の後では、被災者の暗かった表情も、少し明るくなったように感じた。
私たちの仕事は、小さいながらも復興へのきっかけを作る事だったのかも知れないと思う。

 

私は沢山の人たちの協力によって今回の旅に参加できた。
仕事の肩代わりをしてくれた職場の仲間。
指示を守って様々な作業をやってくれた生徒達。
ボランティア活動を支援してくれた東和町の住民。
そして、わがままな行動を許してくれた家族。
それぞれが私に分け与えてくれた少しずつの支援によって、私個人は「少しの成果」をあげることができた。
「少し」を恥じることは無いと、今は思う。


「少しが集まれば、沢山になる。」
みんなで協力して、息長く続けることが大切だということを学んだ旅だった。   
(2011年5月記)
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(追記)
この5年後、思いもかけず私自身も被災者となりました。

熊本地震震度6強の揺れに見舞われ、自宅は半壊しました。
被災して初めて、ボランティアの有難さや意義を実感した気がします。
ボランティアが復興のすべてをやる必要はないと思います。
被災者に「一人きりではない」というメッセージを伝え、真っ暗闇となった未来に一筋の灯りをともすことが、重要な役目ではないかと思っています。

第45夜 2011年・被災地(東北)にて①・・・悩み

宿舎に到着した晩、言われた言葉に自分を恥じた。
「物見遊山で被災地に来ても構いません。現地に行けば、必ず『何かしたい』という気持になります」
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今日の現場は前日に続いて、津波で浸水した家屋の泥出しだった。
民家の庭一面に広がった汚泥をスコップで土嚢袋に詰めていく。
汚泥はガラス片や得体のしれない腐敗物を含み、その厚みは10センチほどだろうか。
湿って粘りのある土は重く、一時間もやっていると腰が痛くなる。
土嚢は集積所まで一輪車で運ぶのだが、15kg程の土嚢を5つも乗せると結構重い。
積み方が悪く、バランスを崩して何回も転倒した。
泥出しは体力勝負の現場だ。


隣の家を見ると、やけに手際のいいチームが作業をしている。
聞けば建設業組合のチームらしい。
そのスピードは、私たち教職員組合の素人チームより格段に早い。
さらに数軒先では小型のパワーショベルが作業をしていた。
言うまでも無く、そのスピードは人力とは比べ物にならない。


自分は何のためにここへ来たんだろう。
僅か一週間の作業のために、熊本から東北まで結構な旅費がかかった事だろう。
(旅費は組合負担なので、私は払っていない。)
その金を義援金として現地に渡し、建設機械をもっと入れたほうがいいのではないかと思った。


今回のボランティアへの参加が決まってから、出発するまでに一週間ほど時間が有った。
現地でどんな業務にも対応できるように多くのものを準備した。
安全靴や防塵マスクなどの保護具、避難所での交流のための小さな楽器や楽譜、壊れた家の修復のための若干の工具、帰ってから生徒に現地の様子を報告するためのカメラ、初めて行く東北の寒さを防ぐための防寒具・・・


だが、苦労して持参したものの大半は役に立たなかった。
被災者と触れ合う機会はほとんどなく、毎日が被災現場での肉体労働だ。
また、プライバシー保護のため、被災地の写真を撮ることも許されない。
張り切って被災地にやってきたのに、大した仕事もできていない。
唯一の救いは、作業終了後に家主から「ありがとうございます」と言われる、ねぎらいの言葉だけだった。


今回の旅で一番重要なのは「自分の学び」だと当初から分かっていたつもりだ。
だが自分は、何も学べていない気がした。
ただ、黙々と泥と戦う。

別冊⑫(災害編)東日本大震災・・・孤独

2011年3月11日
真っ黒な津波が、田園風景を吞み込みながら進んでいく。
これまで確信していた「平和」が壊れた瞬間だった。
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4月下旬、その日の仕事は、大船渡市中心部の高台にある仮設住宅への支援物資の配達だった。
各戸の人数を確認しながら布団や毛布などの寝具を配達して回るが、台帳の人数と実際の居住人数はなかなか一致しない。
被災現場の状況は日々変化しているが、行政の人手が足りず混乱しているのも一因だろう。

 

配達すると、どの家からも「ありがとうございます」と丁寧な礼を言われる。
「今日からやっと布団で寝れる」とも言われた。
入居からすでに一週間ほどが経っている。
まだ肌寒い東北の4月、断熱も不十分な仮設住宅で、この人たちはこれまでどうやって寝ていたんだろう。

 

配達を終え発車しようとしたら、メンバーの中で一番若い20代のG君がいない。
「そう言えば、作業の途中から見なくなったなあ」と隊員の一人が言う。
携帯に電話をかけるが出ない。
彼は前日の作業で一番ダメージを受けていたし、雨にも濡れているので心配した。
しばらく待っていると、彼が息を切らして走ってきた。

「一番端の家に配達に行ったら、お爺さんの話し相手にされました」
聞けば30分ほど捕まって、お年寄りの話を聞いていたらしい。
その人は寝たきりの奥さんを介護しているそうで、いろいろと積もる思いも有るのだろう。

私たちの仕事は単に物資の配達をするだけではない。
G君はいい仕事をしたようだ。
それにしても岡山出身のG君に、お年寄りの岩手弁が良くわかったなと感心したら、
「笑顔で適当に相槌を打っていただけです。」と彼は笑った。

 

ずいぶん前、新聞で見た記事に「避難所にいた頃は会話があったが、仮設住宅に入ったら孤独になった」という被災者の言葉があった。
阪神大震災の時はこの問題が特に深刻だったらしく、今回の震災では各仮設住宅団地には集会所が設けてある。
しかしそこに行ける人ばかりではないと改めて思った。


3月に東北地方を襲った津波を見た時に「何かしたい」と思い、少ない金額だが日赤に寄付した。
さらに現地で直接的支援もしたいと思っていたところ、所属する教職員組合日教組)が全国からボランティアを募って東北3県に派遣することを知った。
阪神淡路大震災の時も同様の募集が有ったが、仕事を休んでいくことはできなかった。
だが今回は4・5月のゴールデンウィークと聞いて応募し、幸いにもメンバーに加えてもらった。


仮設住宅への配達が終わった夜、宿舎でのミーティングで、大槌町に行った他の隊員からも同じ様な報告があった。
海に近い山間の集落に有る半壊した家には、足の不自由な七十代の男性が一人で暮らしていたそうだ。
濡れて使い物にならなくなったものを隊員たちが片づける傍ら、彼は隊員の一人を捕まえて昔話に花を咲かせた。
自分が若かった頃の話、村に活気があった頃の話、世間話は延々と続いた。
やがて彼が、
「二階からタバコを取ってきてくれ」と言った。
隊員が二階から取ってきて渡そうとすると、
「あんたにやる。持って行け」と
老人は隊員のポケットに押し込んだ。
もらったその隊員はタバコを喫わないので、持ち帰ってほかの隊員にあげたそうだ。

 

その話を聞いて、タバコ喫いの別の隊員がぽつりと言った。
「その爺さんは、きっと一緒にタバコを喫う相手が欲しかったんだよ」

 

その地区の若者の8割ほどは都会に出てしまうそうで、いわゆる限界集落らしい。
そのお年寄りの息子も、都会の釜石に出たきり帰ってこないそうだ。
津波が無くとも、孤独な人は多い。

(追記)

この書き込みは「第11夜・被災地の記録①」をリライトしたもので、かなり重複した内容です。

youtu.be

 

第44夜 ビートルズの謎・・・アオナ ホー ヨー へー

昔、厚みがペラペラのフォノシート(レコード)があった。
当時は、雑誌の通販で一枚100円以下で売っていたような記憶がある。
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小学生の頃、我が家にはレコードプレーヤーが無かった。
近所のお姉さんの家には有ったので、お姉さんの留守中におばちゃんの許可をもらって、よく聴かしてもらった。
プレスリーやシナトラなど古い曲が多く、レコードは全部フォノシートだった。


やがてテレビでビートルズベンチャーズの曲がよく流れるようになった。
モンキーズのコメディドラマもよく見た。
英語の意味は分からないままに、聞きとった歌詞をまねて歌った。
だがビートルズを真似て「アオナ ホー ヨー ヘー」と歌うと友人たちに笑われ、それから人前では歌わなくなった。


「アオナ・・」の文字も意味も分からず歌っていた私が、その意味を知ったのは中学生になってからだ。
 I wanna hold your hand
(歌の題名は I want to hold your hand)
同じ意味なのに題名と歌詞は違った。
また、学校で習った発音がビートルズの発音とあまりにも違っていて、英語は難しいと思った。
もともとローマ字が苦手だったこともあり、英語は嫌いになった。


その後、学生時代を通じてずっと英語は苦手だったが、社会人になり職場でALT(英語指導の外国人教師)と酒を飲むようになって、英会話が楽しくなった。
私の英語は文法も発音も滅茶苦茶だが、何とか彼らに通じた。
世界が広がった気がして、積極的に会話(半分以上はボディランゲージ)をするようになった。
英文を読むのは嫌いだが、会話は楽しくなった。


我が家には、ボロボロの英会話の本がある。
明治時代中期、私の曽祖父がアメリカに出稼ぎに行く時に使ったものだ。
英文と日本文の間に、英語の発音がカタカナで振られている。
それは私が学校教育で習った発音とはかなり違った。
私は「昔は英語の発音がよく分からなかったんだろう」と思って、古い本を馬鹿にしていた。
だが実際にアメリカ人と会話をすると、中学校で習った発音よりも、明治の本の発音の方が近い。
そしてそれは、私が歌で憶えた「アオナ…」に近いと気づいた。
明治の会話教本や歌で聞き憶えた発音の方が、今の英語の教科書よりも会話としては優れていると思う。


私は小さい頃に見たドラマに影響されて、弁護士に憧れていた。
だが英語が苦手なため、文系はだめだと早々に諦めた。
高校三年の時には航空大学校を受験したが、これまた英語ができなくて見事に落ちた。
もし英語が得意だったら、私の人生は変わっていたかも知れない。

あのまま英語の歌を歌っていれば、きっと今頃は英語がペラペラで、そうしたら航空大学校にも合格し、金髪美人のスチュワーデスを奥さんに・・・


私の妄想は、限りなく膨らむ。
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別冊⑪(教育編)でもしか教師・・・教育におけるヤブ医者

教師は「医者で易者で役者でなければならない」と教わった。

人の課題を見抜き、進むべき道を示して励ませと言う意味だろう。

だが私はヤブ医者で、当たらぬ易者だった。

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呼ばれて校長室に入ると、教頭が一人ソファーに座っていた。
促されて教頭の前のソファーに座った。
これからこの学校で働こうかという私に対して、教頭は学校の概要を説明し始めた。
二年前に新設されたこと、障害児教育の知識がなくともやる気さえあれば務まる事、若い教員に期待している事などを話してくれた。
そして最後、思わぬことを言われた。
「手を見せてくれい」
 『手?』
教頭は私の手を取ると手のひらを眺めた。
「いい手をしとる。働き者の手だ。指が黒いがどうしたかいのう?」
 『新聞配達をしているので、新聞のインクだと思います』
「ほー、新聞配達をしとるんか」
手を褒められたのは初めてだったが、嬉しかった。


三月末、大学を卒業したばかりの私は広島県東部にある養護学校(現在の特別支援学校)に来ていた。
前日、養護学校から電話があり、「当校に配属が決まりました」と連絡を受けたばかりだった。
機械科の採用試験を受けていた私は、どこの工業高校に配属されるんだろうとばかり思っていたので、養護学校と聞いてびっくりすると同時にがっかりした。
しかし造船不況で就職がままならない同級生もいる中、就職できるだけでも幸せだと思って挨拶に向かった。


教頭との話の後、事務室で関係書類に記入をしていると電話が鳴った。
「あなたに電話です」と事務長が私に受話器を渡した。
 『僕に?』
ここへ来ている事を知っている人間は誰もいないはずだった。


電話の相手は、K工業高校の校長だった。
「あんたは、本来うちに赴任することになっている。手違いでそちらに行ったようだが、すぐうちに来なさい」
私は驚いた。
 『もう、赴任の書類を書いているんですが?』
「そこに出さなくていい。うちに出しなさい。今ならまだ間に合うから」

 

K工業高校には私の専門とする造船科があり、赴任を一番望んでいた学校だ。
行くことができるなら嬉しかった。
しかしついさっきまでは、この養護学校に赴任する前提で事務室のみんなと話をしていた。
私は目の前に座る事務長を見た。
彼は私を見つめていた。
事務室のみんなも、電話の内容から私が誰と話をしているのかわかったようで、みんなの視線が注がれているのを感じた。


『ちょっと待ってください』
受話器を握ったまま考えた。
これは、僕が選択をしなければならないのだと感じた。
迷った。
ずいぶん長い時間考えた気がするが、30秒もなかったのかも知れない。
心は決まった。
『すみません、もうここに書類を出すことにします』


人生における大きな分岐点がいくつかあるとすれば、あの時がその一つだったのは間違いない。
その学校で私が勤めたのは僅か一年間だけだったが、その一年での出会いや学びの濃密さは、その後の人生の10年分にも匹敵したと思う。
もしK工業に行ったとしても、別な出会いはあっただろう。

しかしあの時の判断は正しかったと思っている。
そして、あれほど行きたかった工業高校に私が行かなかったのは、多分教頭が私の手を褒めたからだったような気がする。


その後入居したアパートには、単身赴任中の教頭と私より2年先輩の教員も住んでいた。
先輩は労働組合の役員をしており、一緒に飲むと教頭といつも議論になった。
しかし根底の所では、互いに相手を認めているような気がした。

 

「お前たちはヒヨコだ」
三人の酒の席で、教頭はそう言い放った。
先輩は怒ったが、結局
「そうだ、俺たちはヒヨコだ!」
ということに落ち着き、まだ明るい初夏の庭先を、教頭を先頭に3人で行列をすることになった。
教頭が「コッコ」と声をかけ、私たち二人が「ピヨピヨ」と腰を振りながらついて歩く。
酔ってなければとても見せられない姿だ。


破天荒でいい加減に見える二人だったが、教育者としての姿勢には見習う所が多かった。
小学部の子どもが学校から行方不明になった時、職員で手分けをして探したことが有った。
見つかった時に、私は「やれやれ」と悪態をつきそうな気持になっていたが、教頭は涙を流しながら「よかった、よかった」と子どもを抱きしめていた。
私は自分が恥ずかしくなった。

先輩はベテランの女性教師とペアで仕事をしていたが、子どもの指導方針をめぐっていつも激論を交わしていた。
ある日、議論に興奮した女性教師は彼の頬を平手で殴った。
それにも怯まず議論を続ける彼を見て、私はその信念の強さに敬服した。


一方私自身は、「障害児教育」についての知識どころか、「教育」についての基礎知識すらなく、毎日失敗続きだった。
ある時、知的障害だけでなく精神的な不安定さを持つ生徒の言動に私は激怒し、親の前で「私が鍛え直します」と啖呵を切って、布団と一緒に本人を私のアパートに連れ帰ったことが有った。

一週間も厳しい指導をすれば「治る」だろうと思ったのだが、早速教頭に叱られた。
その子が女子生徒なのを忘れていた。
今思えば、よくご両親は私に預けてくれたものだと思う。
結局、朝夕の食事は私と一緒にするが、夜だけは教頭の部屋に泊まることにして指導は始まった。


しかし、私の指導は一日で破綻した。
気に入らないことがあると、その子は食事中でも食卓の上のものを払いのけた。
私はその手を叩いて叱った。
彼女は泣いた。
夕食も、翌日の朝食もそうだった。

学校までの2キロほどは歩いて行かせようとした。
途中で歩くのを拒否した彼女を私は引っ張り、最後には引きずって歩いた。
泣きわめき抵抗する彼女を引きずりながら、私自身も泣いていた。
二人が校門に着いた時、彼女は激しく興奮し奇声を上げていた。
ビックリして駆けつけた職員に彼女を渡すと、私は別室へ逃げ込んだ。
自分の思い込みだけではどうにもならないことを知った。
そんな私に対して教頭は「最後まで指導しろ」と言ったが、もはや私にその元気はなかった。
その子はその後、人を叩くようになった。


そもそも私は、教育者になるつもりは無かった。
造船技師
を志して大学の工学部に入学した。
入学当初は高度経済成長期で、産業界には活気があった。
しかし卒業時は深刻な造船不況で、一転して就職難だった。
たまたま工業教員の免許も取得していた私は「教員にでもなろうか」と考えて就職した。
そんな意欲も能力も無い私に出会った子どもたちは、不運だったと思う。


だがそんな私でも次第に教員らしくなっていったのは、家庭訪問で聞いたそれぞれの保護者の言葉のおかげだった。

「この子を残して死ねない」

どの親も同じ言葉をつぶやいた。
私は障がい者をめぐる社会的支援の不備を思い知らされた。
障がい者教育に携わるということは、障がい者とその家族が安心して生きていける社会を作ることと密接につながっているように思えた。

 

時代は、日教組の指示によるストライキが毎年のように起きていた頃で、職場でも主任制度をめぐり厳しい議論が続いていた。
私自身は組合から距離を置きたかったのだが、同僚はみんな採用と同時に組合へ加入していった。
いろいろ理由をつけて加入を渋っていた私も加入せざるを得なくなり、4月末に加入した。

 

組合活動をする中で多くの事を学んだ。
生徒や保護者が安心できる学校を作り出すためには、もっと行政の手厚い支援が必要だ。
個人で何を言っても状況は変わらないが、組合や地域住民と一緒に要望を出すことで、少しだけ前進した。
私の中で教育と社会運動が次第に結びついていった。


その年度中には同和教育の担当と、組合支部の役員も任された。
教員になったばかりの若造にいろんな仕事を任されたのは、面倒くさいことをしたくない年配教員に仕事を押し付けられたのだと思う。
でもそれは、今思えばとてもありがたい事だった。
そこで学んだことは、その後の私にとって大きな財産となった。


教員として41年間働いた。
この間、「自分は教員に向かない」と思った日もあれば、「教員は天職だ」と思った日もある。

教員になるという選択は、本当に正しかったんだろうか。
その結論は、退職した今もはっきりしない。
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(追記)

この書き込みは「第7夜・教員事始め」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。

www.youtube.com

ハウンドドッグの「フォルティシモ」
これを聴くと、いつも元気が出る。
一度文化祭で歌ったら、やたらと生徒の受けが良かったなあ・・・