教師は「医者で易者で役者でなければならない」と教わった。
人の課題を見抜き、進むべき道を示して励ませと言う意味だろう。
だが私はヤブ医者で、当たらぬ易者だった。
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呼ばれて校長室に入ると、教頭が一人ソファーに座っていた。 促されて教頭の前のソファーに座った。 これからこの学校で働こうかという私に対して、教頭は学校の概要を説明し始めた。 二年前に新設されたこと、障害児教育の知識がなくともやる気さえあれば務まる事、若い教員に期待している事などを話してくれた。 そして最後、思わぬことを言われた。 「手を見せてくれい」 『手?』 教頭は私の手を取ると手のひらを眺めた。 「いい手をしとる。働き者の手だ。指が黒いがどうしたかいのう?」 『新聞配達をしているので、新聞のインクだと思います』 「ほー、新聞配達をしとるんか」 手を褒められたのは初めてだったが、嬉しかった。
三月末、大学を卒業したばかりの私は広島県 東部にある養護学校 (現在の特別支援学校)に来ていた。 前日、養護学校 から電話があり、「当校に配属が決まりました」と連絡を受けたばかりだった。 機械科の採用試験を受けていた私は、どこの工業高校に配属されるんだろうとばかり思っていたので、養護学校 と聞いてびっくりすると同時にがっかりした。 しかし造船不況で就職がままならない同級生もいる中、就職できるだけでも幸せだと思って挨拶に向かった。
教頭との話の後、事務室で関係書類に記入をしていると電話が鳴った。 「あなたに電話です」と事務長が私に受話器を渡した。 『僕に?』 ここへ来ている事を知っている人間は誰もいないはずだった。
電話の相手は、K工業高校の校長だった。 「あんたは、本来うちに赴任することになっている。 手違いでそちらに行ったようだが、すぐうちに来なさい」 私は驚いた。 『もう、赴任の書類を書いているんですが?』 「そこに出さなくていい。うちに出しなさい。今ならまだ間に合うから」
K工業高校には私の専門とする造船科があり、赴任を一番望んでいた学校だ。 行くことができるなら嬉しかった。 しかしついさっきまでは、この養護学校 に赴任する前提で事務室のみんなと話をしていた。 私は目の前に座る事務長を見た。 彼は私を見つめていた。 事務室のみんなも、電話の内容から私が誰と話をしているのかわかったようで、みんなの視線が注がれているのを感じた。
『ちょっと待ってください』 受話器を握ったまま考えた。 これは、僕が選択をしなければならないのだと感じた。 迷った。 ずいぶん長い時間考えた気がするが、30秒もなかったのかも知れない。 心は決まった。 『すみません、もうここに書類を出すことにします』
人生における大きな分岐点がいくつかあるとすれば、あの時がその一つだったのは間違いない。 その学校で私が勤めたのは僅か一年間だけだったが、その一年での出会いや学びの濃密さは、その後の人生の10年分にも匹敵した と思う。 もしK工業に行ったとしても、別な出会いはあっただろう。
しかしあの時の判断は正しかったと思っている。 そして、あれほど行きたかった工業高校に私が行かなかったのは、多分教頭が私の手を褒めたからだったような気がする。
その後入居したアパートには、単身赴任中の教頭と私より2年先輩の教員も住んでいた。 先輩は労働組合 の役員をしており、一緒に飲むと教頭といつも議論になった。 しかし根底の所では、互いに相手を認めているような気がした。
「お前たちはヒヨコだ」 三人の酒の席で、教頭はそう言い放った。 先輩は怒ったが、結局 「そうだ、俺たちはヒヨコだ!」 ということに落ち着き、まだ明るい初夏の庭先を、教頭を先頭に3人で行列をすることになった。 教頭が「コッコ」と声をかけ、私たち二人が「ピヨピヨ」と腰を振りながらついて歩く。 酔ってなければとても見せられない姿だ。
破天荒でいい加減に見える二人だったが、教育者としての姿勢には見習う所が多かった。 小学部の子どもが学校から行方不明になった時、職員で手分けをして探したことが有った。 見つかった時に、私は「やれやれ」と悪態をつきそうな気持になっていたが、教頭は涙を流しながら「よかった、よかった」と子どもを抱きしめていた。 私は自分が恥ずかしくなった。
先輩はベテランの女性教師とペアで仕事をしていたが、子どもの指導方針をめぐっていつも激論を交わしていた。 ある日、議論に興奮した女性教師は彼の頬を平手で殴った。 それにも怯まず議論を続ける彼を見て、私はその信念の強さに敬服した。
一方私自身は、「障害児教育」についての知識どころか、「教育」についての基礎知識すらなく、毎日失敗続きだった。 ある時、知的障害だけでなく精神的な不安定さを持つ生徒の言動に私は激怒し、親の前で「私が鍛え直します」と啖呵を切って、布団と一緒に本人を私のアパートに連れ帰ったことが有った。
一週間も厳しい指導をすれば「治る」だろうと思ったのだが、早速教頭に叱られた。 その子が女子生徒なのを忘れていた。 今思えば、よくご両親は私に預けてくれたものだと思う。 結局、朝夕の食事は私と一緒にするが、夜だけは教頭の部屋に泊まることにして指導は始まった。
しかし、私の指導は一日で破綻した。 気に入らないことがあると、その子は食事中でも食卓の上のものを払いのけた。 私はその手を叩いて叱った。 彼女は泣いた。 夕食も、翌日の朝食もそうだった。
学校までの2キロほどは歩いて行かせようとした。 途中で歩くのを拒否した彼女を私は引っ張り、最後には引きずって歩いた。 泣きわめき抵抗する彼女を引きずりながら、私自身も泣いていた。 二人が校門に着いた時、彼女は激しく興奮し奇声を上げていた。 ビックリして駆けつけた職員に彼女を渡すと、私は別室へ逃げ込んだ。 自分の思い込みだけではどうにもならないことを知った。 そんな私に対して教頭は「最後まで指導しろ」と言ったが、もはや私にその元気はなかった。 その子はその後、人を叩くようになった。
そもそも私は、教育者になるつもりは無かった。 造船技師 を志して大学の工学部に入学した。 入学当初は高度経済成長期で、産業界には活気があった。 しかし卒業時は深刻な造船不況で、一転して就職難だった。 たまたま工業教員の免許も取得していた私は「教員にでもなろうか」と考えて就職した。 そんな意欲も能力も無い私に出会った子どもたちは、不運だったと思う。
だがそんな私でも次第に教員らしくなっていったのは、家庭訪問で聞いたそれぞれの保護者の言葉のおかげだった。
「この子を残して死ねない」
どの親も同じ言葉をつぶやいた。 私は障がい者 をめぐる社会的支援の不備を思い知らされた。 障がい者 教育に携わるということは、障がい者 とその家族が安心して生きていける社会を作ることと密接につながっているように思えた。
時代は、日教組 の指示によるストライキ が毎年のように起きていた頃で、職場でも主任制度をめぐり厳しい議論が続いていた。 私自身は組合から距離を置きたかったのだが、同僚はみんな採用と同時に組合へ加入していった。 いろいろ理由をつけて加入を渋っていた私も加入せざるを得なくなり、4月末に加入した。
組合活動をする中で多くの事を学んだ。 生徒や保護者が安心できる学校を作り出すためには、もっと行政の手厚い支援が必要だ。 個人で何を言っても状況は変わらないが、組合や地域住民と一緒に要望を出すことで、少しだけ前進した。 私の中で教育と社会運動が次第に結びついていった。
その年度中には同和教育 の担当と、組合支部 の役員も任された。 教員になったばかりの若造にいろんな仕事を任されたのは、面倒くさいことをしたくない年配教員に仕事を押し付けられたのだと思う。 でもそれは、今思えばとてもありがたい事だった。 そこで学んだことは、その後の私にとって大きな財産となった。
教員として41年間働いた。 この間、「自分は教員に向かない」と思った日もあれば、「教員は天職だ」と思った日もある。
教員になるという選択は、本当に正しかったんだろうか。 その結論は、退職した今もはっきりしない。 ------------------------------------
(追記)
この書き込みは「第7夜・教員事始め」をリライトしたもので、ほぼ同じ内容です。
VIDEO www.youtube.com
ハウンドドッグの「フォルティシモ」 これを聴くと、いつも元気が出る。 一度文化祭で歌ったら、やたらと生徒の受けが良かったなあ・・・