ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第50夜 さようならSL

今日、18年ぶりに会った。
そして、これが故郷で見る最後の姿となった。
ホームを出発する汽車は、細く長く汽笛を鳴らして出て行った。
まるで泣いているかのようだ。
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高校時代、毎朝「一番汽車」で通った。
当時すでに蒸気機関車(SL)は珍しい存在だったが、一番汽車だけはSLだった。


阿蘇から来る列車と、北阿蘇から来る列車が立野駅で連結され、二重連の姿でやってくる。
ホームにやってくるその姿は勇ましい。
けたたましく汽笛を鳴らし、煙と蒸気を吐きながら、はらわたを揺さぶるような地響き・轟音と共にやってきた。
鉄の重量と石炭の熱と、大地をも揺るがす力強さが大好きだった。

 

冬場は客車の屋根に阿蘇の雪を積んでやってきた。
夏は開けた窓から煙が入ってきた。
木材が多く使われた古い客車は、窓も狭く暗かった。
車内はがらんとしていたが、私はいつも最後尾の客車に乗った。
長く何両も連結され、最後尾の客車は出発の時には大きく揺れた。

 

客車のドアは手動開閉式で、いつでも開ける事ができた。
列車の走行中に、よく最後尾のドアを開けた。
狭いデッキに立つと、流れ去る景色の中央には、まっすぐに伸びるレールだけが見える。
その景色が好きだった。
時折ノートを小さくちぎって紙吹雪にして撒いた。
紙切れ達は、まるで桜吹雪か花火のように線路の上を舞った。

 

高校時代は受験勉強もあり、鬱屈した日々だった。
だが、汽車の中だけは不思議と落ち着けた。
通学の時は参考書も読まず、好きな小説を読んだ。
3年間の通学のあの時間は、私が私を取り戻す大切な時間だったのだと思う。

 

やがてSL達は引退したが、私は乗り納めにも見送りにも行かなかった。
十年数後、汽車の一台が「あそboy」と名付けられ、週末に観光客を乗せて阿蘇へ走ることとなった。
私は懐かしさから駅まで見に行ったが、大きく落胆した。
阿蘇の原野をアメリカの西部に見立て、客車はアメリカの西部開拓時代のイメージに飾り立てられていた。

私は汽車が可哀想に思えた。
それは似合わない衣装を着て芸をさせられている様な、惨めな姿に思えた。
何年もの間阿蘇へ向けて走っていたが、一度も乗っていない。

 

同じ汽車は、その後何年か人吉を走り、今は熊本と鳥栖の間を走っている。
来年3月には引退するので、今日が阿蘇への最後の旅だと聞き、ホームまで会いに行った。
嬉しいことに、久々に見た客車は昔風のデザインだった。
人生の最後にやっと本来の姿で過ごせて、汽車が喜んでいるような気がする。

 

出発の時に聞いた汽笛は、昔の力強い汽笛では無く優しい音色だった。
別れを惜しむかのようなその声を聞き、思わず涙が出た。

 

また一つ、自分に繋がるものが消えていく。