「何の用だ!」
野太い声を出しながら、ドアから大柄な運転手が降りてきた。
見ると彼の手には、鉄パイプが握られている。
私は、しまったと思った。
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仕事のため熊本市方面へ向けて車を走らせていた。
すると、「熊本市」と書いたボードを持って道端に立つ二人連れに気づいた。
一瞬何のことか分からなかったが、「ヒッチハイクだ!」と気づき、少し迷ったが車を止めた。
二人の若い男性が走って近づいてきた。
「すみません! 熊本市中心部まで乗せてもらえませんか?」
二人は高校生で、学校が休みになったので繁華街へ買い物に行くらしい。
片道20kmほどの距離をヒッチハイクで行けば、往復千円以上の節約になるそうだ。
たくましい若者達だと思った。
私が初めてヒッチハイクをしたのは小学校6年生の時だった。
テレビで見て憧れ、早速悪ガキ仲間の3人でやった。
どうにか目的地に到着はしたものの、帰りは車が止まらず、夜遅くに帰宅したらとても叱られた。
テレビで見るほど楽ではないと思った。
そして大学1年の秋、私は人生2回目のヒッチハイクをすることになった。
洞窟調査に行く探検部の集合に私と友人の二人が遅れ、予定の列車に乗り遅れてしまった。
仕方なく次の便で出発したが、目的地近くの駅に着いた時はすでに日も暮れて、最終バスは出た後だった。
宿営地まで山道が10km以上有るが、歩くしかない。
重い荷を背負って、暗く寂しい山道を歩き始めた。
たまに後ろから車がやってくるので、乗せてもらおうと手を振った。
だが暗い山道で、得体のしれない二人連れの男を乗せてくれる車は無かった。
やがて、何台目かにやってきた大型トラックが、少し通り過ぎた先で止まった。
開いたドアから降りてきたのは、鉄パイプを持った大柄な男だった。
「何の用だ!」
運転手の声はどすが利いていた。
私はビビりながらもお願いをした。
『すみません、帝釈峡まで行くんですが、乗せてもらえませんか?』
運転手は私たちの服装を見回すと、警戒を解いたのかパイプをトラックにしまった。
「乗れ!」
運転手は詳しく話を聞くことも無く、乗せてくれた。
助手席に二人でリュックを抱いて座っても、大型トラックの運転台は余裕が有り快適だった。
「最近、縦貫道の工事が始まってから、この辺に山賊が出るという噂が有る。お前たちが変な奴らだったら、退治してやろうと思ったんだがな」
鉄パイプを持った理由を運転手は話してくれた。
私達はつなぎ服を着て、ヘルメットを被った怪しい姿だ。
問答無用で退治されなくて良かったと、ほっとした。
トラックは宿営地近くで私たちを降ろすと、先へと走っていった。
ヒッチハイクは乗せる側にも危険が有る。
なかなか止まらない車ばかりだったのに、乗せてくれた運転手はきっと優しい人なんだろうと感謝した。
だがそれから二月もしないうちに、私はまたしても列車に乗り遅れてしまった。
今回も同じ探検部の行事で、行先も時間帯も全く同じだ。
そして今回も私だけではなく、もう一人乗り遅れた部員がいた。
困ったことになったと思った。
夜道では、一人の乗客でも乗せてくれないが、男の二人連れだとなおさら乗せてくれない。
前回みたいに優しい運転手に出会えるとは思えず、歩き通す覚悟で山道を登った。
手を振るがやはり車は止まらない。
それでも山道を半分近く歩いた時だったか、一台のセダンが止まった。
「乗ってけ」
乗せてくれたのは、30代位の若い運転手だった。
私たちは、ほっとして乗り込んだ。
だが、すぐに後悔した。
くねくねの山道を飛ばすスピードが半端ではない。
つづら折りの上り坂を、タイムトライアルをするかのように、車はタイヤを鳴らしながら進んでいく。
ダッシュボードの上に置かれたタバコの箱は、カーブのたびに片側の端から反対側へと、振り子のように滑っていく。
道路はセンターラインもない狭い道で、カーブにだけはガードレールが有る。
だが切り落ちた崖の下を見ると、落ちたらただでは済まない事がわかる。
僅か10分ほどの同乗だったろうが、降りた時には安ど感と同時にひどい吐き気に包まれた。
それ以降、私は列車への乗り遅れはしなくなった。
(追記)
昔、大きいリュックを背負って、歩いて旅をするのが流行った。
当時流行っていたジョン・デンバーの曲を聴きながら、いつか自分もやってみたいと思っていたが、とうとうできなかった。
あの頃はヒッチハイクもそんなに危険ではなかったと思うが、最近は何とも残念な世の中になったものだ。