ノスタルジー千夜一夜

失敗と後悔と懺悔の記録(草野徹平日記)

第21夜 1980年「糾弾会」・・・糾弾されるべきは誰か

教員三年目。
半人前にも届かないのに、口だけは達者だった。
ただ、「何が正しいのか、自分はどうあるべきか」
苦悩する毎日だった。

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「何も答えられないんですか!」
司会のKさんは私達に向けて語気を強めた。
それに対して私は「その理屈は理不尽だ!」と、腹の底から怒りがふつふつと湧き出てきた。
しかし、並んで座る同僚達は誰もが黙ってうつむいたままだ。
このままでは、自分たちが間違っていたと認めることになってしまう。
「言い返したい」という思いと、「やめとけ」という思いが胸の中でせめぎ合い、心臓がどきどきしてきた。
「このパターンはやばい・・・」と必死でブレーキをかけようとしたが、
「それでも教育者ですか!」と詰め寄られた一言に、つい「いいですか!」と手を挙げてしまった。


教員2年目を終えたばかりの私が、初めて参加する「糾弾会」だった。
それは私が勤務する高校の生徒が、紆余曲折の末に「自主退学」させられた問題をめぐって、事実確認のために開かれものだ。
「糾弾会」が実施されると聞いた時、私は大喜びした。
教育困難校」と呼ばれる学校で、私達は毎晩生徒指導に駆けずり回り疲れ切っていた。
時代は校内暴力や暴走族などがマスコミをにぎわせ、私の学校でも「事件」が毎日起こっていた。
だが、教育委員会に学校の窮状を伝えても一切支援がなく、行政の冷たさに絶望していた。
そこへ「糾弾会」の話が持ち上がり、私は「差別をなくす運動体が、教育行政の無策を糾すため私達に力を貸してくれる。」と期待して、当日を心待ちにしていた。


その夜は家庭訪問に時間を取られ、私は少し遅れて参加した。
だが会場に着いて驚いた。

私たちは県教委と同じ側に座らされ、糾弾される側になっていた。
さらに、運動団体の代表でもある司会のKさんは、県教委の姿勢は一切問題にせず学校職員の失敗を事細かに列挙していった。
そこには現場で苦心している私達への同情など一切なく、その論理は私にすれば机上の空論とも言うべき理想論だった。
たまりかねて手を挙げた私は、
「自分も同僚も、差別者なんかではない。一所懸命に生徒のために働いている」と、普段の職員の努力・苦悩・生徒たちとのつながりを具体例を交えて必死で訴えた。


私は「思いを伝えることができた」と、ほっとして席に座った。
Kさんは「よく言ってくれました」と最初は褒めてくれた。
しかしその後彼が私に質問をしていく中で、私の意見の矛盾が次々と明らかになっていった。

 

私は「自分達は最大限の努力をしているのだから、残念なことになった結果の責任は、私達ではなく教育行政に有る。」という趣旨の発言をしたが、その姿勢は教育行政の役人と何ら変わりのないものだと気づかされた。
Kさんは一言一言、丁寧に私の意見の誤りをただし、「そうではないですか?」と聞いてきた。
私はうつむいて「そうです。」と答えるしかなかった。
威勢良く手を挙げた私だったが、最後は恥ずかしさのあまり真っ赤な顔をして座り込んだ。


「糾弾会」はこのやり取りを境に流れが変わっていった。
Kさんの質問の矛先は今度は県教委に向けられ、

「これほど苦労している現場に対して、県行政はどう対処してきたのか?」と議論が進んでいった。
最終的には、私が当初期待していた成果をいくつか得ることができて会は終わったが、このあとの数日間、「あんなことを言わなきゃよかった。」と私は落ち込んだ。

私は自分が正しいと思うと、後先考えずに突っ走る欠点がある。
同僚たちから「よく言ってくれた」と励まされたのだけが、小さな救いだった。


私の初任は「養護学校」だったが、自分でも想定外の職場結婚をして僅か一年でそこを転出した。
転出先は私の専門科のあるK工業高校ではなく、近くのA工業高校だった。
早朝から深夜まで時間外労働が連日続き、生徒とのぶつかり合いのストレスも大きい過酷な職場だった。
この学校で8年間勤務する間に、私の「教師」としてのスタイルは出来上がった。
それは本来の私ではなく、「なめられまい」と虚勢を張り、有能さと熱心さを装うものだ。
さらには、周囲の評価ばかり気にする小心さはそのままだったため、なおさら救いようがなかった。
しかし自分では、「正しい事をやっている。」と強く信じていた。
そのため職員会議でも自説を曲げず、会議はいつも揉めた。


生徒とはいつもぶつかった。
負けまいと絶対に自分の非を認めず、生徒を信頼することが出来なかった。
心を許せたのは、部活で顧問をしていた探検部や柔道部の生徒達、一緒にキャンプや夜釣りに行ったクラスの一部の生徒だけだった。
もし実物大の自分のまま、本音で生徒に接することができていたら、私の教員生活もかなり違ったものになっていただろう。
しかし、その後いくつも職場を変わりながらも、教師としての私のスタイルは変わらなかった。
私と出会った生徒達には申し訳ないことをしたと思う。
自分の歪みや至らなさに気づき始めたのは、もう定年も間近になった頃だ。


学校現場を離れた今、少しはマシな人間になったと自分では思っている。
だがなぜか「まったく変わっていない」と私の妻は言う。
人はなかなか変わらないものらしい。

 

(注)
・「糾弾会」という形式・呼称は、「学習会」という形式に変わりました。
・その他、現在使われていない言葉も、当時のまま使用しました。
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(付記)
2021年2月28日の朝刊に、「糾弾会」で司会を務めたKさん(小森龍邦部落解放同盟中央本部元書記長、元衆議院議員)の訃報が載っていました。
Kさんと初めて会ったのは、私が初任の時でした。
直接言葉を交わしたことは1・2回しか有りませんが、その舌鋒の鋭さにはいつも敬服していました。
一つの時代が終わった気がします。
ご冥福をお祈りします。

 

一つだけ心残りなのは、小森さんがこの糾弾会の経緯について同和教育関連の機関誌に当時書いたものを読まなかったことです。
「お前の発言についても書いてあるぞ」と同僚が笑いながら教えてくれましたが、意地で読みませんでした。
彼が私をどう評価したのか、今更ながら気になります。

 

 

当時の僕には、15歳の少年の心など分かるはずもなかった。